手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

その時代に立ち帰って 障害者 の結婚を

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  (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 被爆という人類史上かつてない大量虐殺の中で、生き抜いてきた人々の中で、新しく生きていこうとする息吹を心から信頼しつつも、それまでの柵(しがらみ)から抜けきれない現実がをまざまざと見せつけられる問題。

 

 あの世の両親の心配とは別に46年間、西岡さんも榎園さんもともに夫婦として生き抜いて1991年の証言にまで至った。

 

   同じ墓に入ってあの世でも

 夫婦として ともに過ごしていきたい

 

 西岡さんの顔が見えなくなって不安だ、同じ墓に入ってあの世でも夫婦として、ともに過ごしていきたい、という榎園さんの言葉。

 

  現代の日本では信じられないような事態がかってあった。

 

 今の若い世代に西岡さんと榎園さんの話をしても、単なる「同棲」の話としてしか受け止めないかもしれない。

 

 が、婚姻届を出す、結婚する夫婦である。

 

 成人になれば誰でも権利として行使できることが、戦後の日本国憲法下においてすら出来なかった。

 

 出来切れなかったという背景を充分理解する努力を怠ってはならないだろう。

 

       ひとつ一つの証言はあまりにも深い

 

 榎園さんと西岡さんの二人の証言が、なぜひとつの章の中でまとめ上げられているのかが、改めて理解できた気がする。

 

 全通研長崎支部のみなさんの気配りであろうか、

 

 西岡さん榎園さんの希望であったからであろうか、

 

 ひとつの章にまとめ上げられているこの文章に戦後の苦々しい時代を生き抜いてきた二人、

 

 また二人を支えてきた両親や家族の人々に対する心からの尊厳の気持ちが籠められていると思う。

 

 榎園さんの証言を読んでから、再び西岡さんの証言を読むと二人が言えそうにもなかった証言が時空に浮かび上がる。

 

 繰り返し、繰り返し振り返りながら読んでみると、重厚な歴史を生き抜いてきた人々のひとつ一つの証言はあまりにも深すぎる。

 

あの世まで婚姻届を持っていってしまった親の気持ち

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特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 榎園和子さんは、67歳の時に被爆体験を証言してくれています。

 

  仄に見える

 

 生まれてすぐに聞こえなくなり、弱視に。左目を頼りに生きてこられたことを率直に語ってくれた。

 

 8歳の時にろう学校に入学。

 

 中学部では和裁を学習。

 

 9人の友人を中心にろう学校に通っていた楽しい時代のことが語られています。

 

 榎園さん、39歳の時にろう学校中学部を卒業。

 

 両親にかわいがられ育つが、戦争のため佐賀県疎開

 

  長崎に落ちていく   強烈な赤い光

 

 運命のあの日の8月9日。

 

 いつものように恋しい両親のいる長崎方面を見ていた。

 

 強烈な光、赤く光ったものが上空から長崎に落ちていく46年前の光景は、今もありありと記憶している。

 

 ただならぬ事態ばかりか、恐ろしい事態が長崎の街に起きている、それは榎園さんに、はっきりとわかるぐらいのことだった。

 

 戻った長崎の街。

 

 異様な光景。

 

 自宅は残っていた。

 

 お父さんは、原爆の悪い空気を吸ったようだ、と話して2年後に亡くなっていく。

 

 哀しみの涙が乾かないうちに、お母さんも原爆病院に入院。一週間でなくなる。

 

 榎園さんをどこまでも守り続けた二人の両親が亡くなったことは、流れる涙以上の哀しみであったことは間違いない。

 

 お互い一目惚れ 結婚したのに同姓でない

 

 お父さんやお母さんが亡くなるまでの2年間の間に榎園さんにとっては、その後の運命を決める重大なことが生まれてくる。

 

 西岡さんとの結婚。

 

 お互い一目惚れ。

 

 長崎に原爆が投下されて1年後の22歳で榎園さんは結婚。

 

 証言はここにきて、初めて榎園さんが西岡さんと結婚したのに同姓でないことを明らかに。

 

     あの世まで婚姻届を

   持っていってしまった両親

 

 一目惚れ、愛し合う二人。

 

 結婚。

 

 被爆直後の長崎で二人が生きていくのにこれほど力強いことはなかった。

 

 榎園さんのお父さんやお母さんはきっと心からの祝福を送ったに違いない。

 

 だが、お父さんやお母さんには限りない不安を抱いていたこともまた間違いがない事実。

 

入籍。結婚したという証が、榎園さんには残っていない。

 

 いつ彼女が、その事実を知ったのか証言の中では明らかにされていない。

 

 入籍手続きが、お母さんによってなぜされなかったのか一定の想像の域。


 障害者同士。

 

 榎園さんはさらに目が不自由であった。

 

 いつ離婚させられるかもしれないと、考えあぐねた末、両親はあの世まで婚姻届を持っていってしまったようである。

 

まだまだ言えないことがあまりにも多すぎるともとれる証言

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

    84歳の時に被爆体験を証言

 

 西岡林市さんは、84歳の時に被爆体験を証言してくれている。

 

 もう26年余の月日が経ってしまった。

 

 諫早の牛の仲買をする家庭で育った西岡さん。

 

 聾学校に行けず17・8歳の頃に畳職人としての見習いの仕事に就く。

 

 3年間の賃金のないただ働きの見習い。

 

 住み込みの畳屋さんを飛びだして実家へ。

 

 怒る父に母は林さんを心から庇ってくれたのだろう、

 

 私には、文には見えないが、微妙な手話の中にそのような気持ちがあったこと、が見えてくるから不思議だ。

 

 文字に秘められた哀しみの二人暮らし

 

 畑の草むしり、牛に犂を引かせての田の作業。昭和の初めに西岡さんは長崎市内に移り住むことになる。

 

 兄弟たちとともに住んでいるものの、戦争は次第に西岡さんとお母さん二人の生活を余儀なくせざるを得なくなるまでに追いつめる。

 

 西岡さんやお母さんの胸深くに去来したことが述べられていないが、私たちは決して文章にある「母と私の二人きりで暮らし」の意味を字面だけで受け止めてはならないのは言うまでもないだろう。

 

 兄弟は徴兵され、残された西岡さんとお母さんにはあらゆる形の重圧が加えられていた事は充分推定できる。

 

 畳仕事もだんだん少なくなり、西岡さんにとうとう仕事ができなくなってしまう。

 だから西岡さんは、力仕事をするようになったと証言する。

 

 証言に現れた情景を読むことの意味

 

 8月9日。西岡さん38歳。

 

 朝からの町内の穴掘り作業。

 

 強い衝撃。

 

 飛ばされた身体。

 

 下腹部の刺す痛み。

 

 頭を打ち付けてしまう驚き。

 

 見た回りの風景は霧に覆われたように真っ白で何も見えなかったと西岡さんは証言する。

 

 衝撃的な事件に加えて聞こえない西岡さんにとっては周りの情景が見えなくなったことは、恐怖を一層昇降させていったことだろう。

 

 そこに鼻を刺す臭いもあった。

 

     「幽霊のようになった人々」を見る

 

 お母さんのことが心配になって自宅に戻ってみる。

 

 西岡さんの家はつぶれて、煙が上がっている。生木からも煙が出ている。

 

 崩れた壁の下からお母さんを見つけ出し、かすかな息を確かめる西岡さん。

 

 お母さんの身体には無数の竹が突き刺さり、西岡さんはその竹をひとつ一つ抜く。

 

 そして、お母さんを背負い、防空ごうでお母さんを寝かせ、ぼう然となった

 

 西岡さんは、墓地の中で一晩を明かす。

 

 でも、それから西岡さんが見た光景は、まるで「幽霊のようになった人々」だった。

 

 あらゆる恐怖と想像を絶する恐怖が、襲いかかっていたのだ。

 

 ともかく西岡さんは、父や兄とも再会。兄はお母さんを縄でおぶって帰ってきた。

 

 原爆投下2日後に、西岡さんのお母さんはなくなる。

 

 お父さんはその年、お母さんを追うかのようになくなり、西岡さんの戦後がはじまる。

 

    27年間西岡さんは畳職人として働いた

 

 五年の後、西岡さんは再び畳の仕事に就き、結婚する。

 

 それから、27年間西岡さんは畳職人として働いた、と証言。

 

 そして、楽しい思い出は、旅行と買い物と言い切る。

 

 証言した83歳の時に、西岡さんは老人ホームで生活しながら、ゲートボールをしている。それが唯一の楽しみ、と言う。

 

 まだまだ言えないことがあまりにも多すぎるともとれる西岡さんの証言だ、と思うのははたして私の憶測しすぎなのだろうか。        

 

 

闇を消そうとする薄暗い光の中の 手話 会話

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特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

  

  暗闇にぼんやり映る手話

 

8月9日。

 

 耳から血を流して帰ってきた夫。

 

 職場のの仲間のろうあ者も無事だった、と語り合ったであろう手話は、いつもの喜びに満ちた動きはしなかっただろう。

 

 戦争下、非常事態、灯火管制という薄暗い、暗闇。

 

 夕餉の終わったわずかな時間に目を凝らして見つめ合う手話での会話。

 

 生と死、閉ざされた現実などもう考えられも出来ないような非人間的な現実が、これよこれよと燦々と降り注いできていた。

 

  敗戦    母は悲しみ    渡辺さんは安心

 

 ロウソクか、わずかなランプか、ひとつの白熱灯があったのことだろうが、渡辺さん夫婦の手話は、どんな薄暗い光の中でも絶えることはなかったことだろう。

 

 渡辺さんもどうしても原爆投下地点を目で確かめ、現実を受けとめようと思い続けた。

 

 4、5年後経っても浦上に行く。

 

 敗戦は、母の話で知る。

 

 母は、悲しみ。

 

 渡辺さんは、安心した、というこの対照的な思いはあまりにも複雑。

 

 父も母もなくなり、子どもを育てるための必死の買い出し。

 

 近所の人々の援助もありながらも、子どものお乳のための食べ物まで、取り締まられる時代を生き抜いていく。

 

    親と子と断ち切れない愛情が波打って

 

 腕だけが頼りの時代を生きたと言い切る渡辺さん。

 

 和裁の仕事を再開し、母のかっての想いをかみしめることになる。

 

 三人の子どもは働きながら高校を卒業し、着るもの学費は子どもたちが働いて「工面」してくれたと渡辺さんは言うが、そこには親と子と断ち切れない愛情が波打っているように思えてならない。

 

    年金もあるし手話通訳者もいるのでいろいろ助かります

 

 渡辺さん75歳。

 

 夫もなくなり長男と同居。

 

 戦後の苦しい時代を振り返り、「年金もあるし手話通訳者もいるのでいろいろ助かります。」と証言の言葉を結ぶ。

 

 この言葉は、あまりにも重い。

 

 重いが故に、私たちは渡辺さんと同じ思いをする人々が、この地球上からいなくなるようにお互いの取り組みを固めて行かなければならないと思う。

 

 

急変ぶりと人々の姿を克明に証言

  (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

  大反対を受けながら

渡辺さんは 幸せ 不幸せを

             考え結婚の道に

 

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 渡辺初子さん。26歳の時に結婚。            

 

 聞こえない二人の結婚。

 

 大反対を受けながら、渡辺さんは、幸せ、不幸せを考え結婚の道にすすんでいく。

 

 まさにその時、日本は戦時下の最中。

 夫の実家に帰った新婚旅行の1週間。

 

 束の間のひとときは、彼女の喜びの空間で一杯になっていた。

 

 戦争はますます拡大し、空襲警報が聞こえない二人は、結婚に大反対された渡辺さんの実家で暮らすことになる。

 

    歯を食いしばって赤ちゃんのいのちを育て

 

 すべて戦時色で、すべての人々が生き残ることを考え肩寄せ合っていた時期に渡辺さんは長男を出産する。

 

 炭火で沸かした産湯。

 

 おしめを取り込んで防空壕に逃げる日々。

 

 切なく哀しみの多い日々の中で、歯を食いしばって赤ちゃんのいのちを育てようとする渡辺さんの日常が切々と話されていく。

 

     夢と消えた自分たちの生活の場 
         それでも生き抜いて

 

 両親が満身込めて働いたお金で建てた家も強制疎開

 

 何もなくなった実家の跡。

 

 もったいなかったのは、すべての過去の歴史。

 

 夢と消えた自分たちの生活の場。

 

 それでも、渡辺さんたちは、生き抜いていく。

 

 それから1年もたたずに巨大な悲劇が渡辺さんたちを襲う。

 

   「手のひらと人差し指」の手話で

 

 8月9日。

 妹の花嫁衣装を縫を縫っていた渡辺さんは、父親に呼ばれて正覚寺の階段から遠くに浮かぶ落下傘を目撃する。

 

 その様子が、「手のひらと人差し指」の手話で示されている。

 

 それが、「原爆観測用ラジオゾンテ」であったとは、誰もが夢だに考えなかっただろう。

 

 同時刻、松井トクさんも渡辺さんたちが目撃した地点の近くの舟大工町で「高いところに黒くてまるい物」をみんなと一緒に目撃し、しばらくして叩きつけられた衝撃を受けている。

 

 同時刻、目撃。

 

 しばらくしての原爆投下。

 

 その時間の差はどれくらいであったのだろうか。

 

   急変ぶりと人々の姿を克明に証言

 

 松井トクさんも渡辺初子さんもそのほんのわずかな時間に歩いた方向でいのちが救われている。

 

 渡辺さんは、急変ぶりと人々の姿を克明に証言している。

 

 ガラスの刺さった顔。

 

 流れる血。

 

 燃えつきた髪。

 

 焼けこげた服。

 

 熱でねじ曲がった腕。

 

 起きあがることも出来ない人。

 

 浦上方面に見えるどす黒い煙。

 

 28歳の渡辺さんには、黒い煙の舞い上がるもとの人々の日常生活が見えたことだろう。

 

 

 

手話 は違いがある その手話の違いをことさら強調し対立するのではなく時間をかけてお互いの共通理解と共通する手話を認め合ってきた

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   (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

  群馬県伊香保温泉に全国からろうあ者が集まって現在の全日本ろうあ連盟の前身である全国組織を作ったときの話を多くのろうあ者から聞いた。

 

 一番激しく対立したのが、手話、であったと言う。手話がまったく異なった表現方法だったため、意思が通じなかったという。

 

 筆談や口話や手話などで相談し、全国組織が発足していく。

 

  相互の理解が達成されたから

  ろうあ者の全国運動が展開された

 

 このことから全国交流がはじまり、手話のそれぞれの表現の違いを乗り越えて自分たちの行動や要求がまとめあげられていったのである。

 

 手話は違いがある。その手話の違いをことさら強調し、対立するのではなく、時間をかけてお互いの共通理解と共通する手話を認め合ってきたのである。

 

 もちろん、各府県や各ろう学校出身者の手話をめぐって、この表現が正しい、この表現がいいと激しい対立があったらしいが、それでも相互の理解が達成されたからろうあ者の全国運動が展開されたのである。

 

   手話は

文字表現や口話と対立するものではなく
 それらも駆使して創造されてきた

 

 手話は、文字表現や口話と対立するものではなく、それらも駆使して創造されてきたことを決して忘れてはならないのである。

 

 手話表現の対立を共通することでまとめあげられたろうあ者の要求を見るならば、そこに聞こえない話せないという条件を揚棄させていったろうあ者の限りないコミュニケーション表現力の素晴らしさを見いだすことが出来る。

 

  文字化されたものではなく
 手話を学んでその話を聞くべきだと

  多くの人々と連帯することへ

  分断してはならない

 

 長崎の被爆体験を記録する取り組みに対して、文字化されたものではなく皆が手話を学んでその話を聞くべきだ。

 

 文字は文字であって手話ではない、と決めつける人々がいる。そういう人に限って自分の考えで手話通訳する、曲解する人が多い。

 

  手話は、文字表現や口話と対立するものではなく、それらも駆使して創造されてきたことを考えるならば、文字を通じて多くの人々にろうあ者の被爆体験を知ってもらうことはとても大切なのである。

 
  文字は文字であって手話ではない、と決めつける人々は、ろうあ者の被爆という事実を覆い隠そうとしていると言われても仕方がないだろう。

 多くの人々と連帯することへの分断とし手話を使ってはならないし、それを許してはならない。
 

 

手話 や 手話表現 をめぐってとても大切なことが消し去られようとしている

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   (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

   

「違う」「同じ」でコミュニケーションを
  まとめあらげてきた手話の想像力

 

 手話でコミュニケーションする場合は、よく話が食い違う場合がある。

 

 人間が、話をする場合に話しが食い違うのは、ある意味当然である。

 

 だが、手話の場合はそれを別仕立てで話されるのはおかしいことである。

 

 手話は、それぞれのろうあ者のそれぞれの生活に起因している場合が多い。

 

 生活に根ざした、生活が反映した手話と言っていいだろう。

 

 その場合、「違う」「同じ」という手話で、お互いを認め、通じる手話でコミュニケーションが成立していくとがとても多い。

 

    二者択一的をせまる教育手段の危険

 

 近年、ろう学校に手話を!!という主張している人が多い。

 

 でもその手話は、規格化された、「新しい手話」の押しつけに過ぎないと思うのは、私だけだろうか。

 

 確かに口話法で手話を禁じる先生をはじめ多くの人々がいた。

 

 だが、これに対して手話を対置して「ろう学校に手話を」ということで口話を駆逐していくことだけでろう学校における教育が成立すると真に思っているのだろうか。

 

 1970年代初頭。亡き大阪教育大学の村井潤一教授は手話と口話を巡って

 

今は口話が唯一とすることが圧倒的多数であるが、近い将来手話唯一が主張されるであろうと、二者択一的をせまる教育手段の危険を警告していた。

 

      平地であり一方は山間部にわずかな平地に投下された原爆を

 見たろうあ者の手話表現の違い

 

 手話で原爆をどのように表すのかを「新しい手話」なるもので「定められ」たら」広島や長崎で被災したろうあ者の地獄からの手話再現が踏みにじられてしまいそうにも思える。

 

  私は、広島で原爆投下を目の当たりにして被災したろうあ者から何度も被爆当日のことを聞いてきた。

 

 全身ケロイドに覆われて生き延びたろうあ者の手話は地平線に浮かび上がるキノコ雲だった。

 

 長崎で見た原爆のキノコ雲の手話と明らかに違いがあった。

 

 長崎と広島に投下された原子爆弾は、その種類と投下された地点も異なる。

 

 一方は、三角州で形成された平地であり、一方は山間部にわずかな平地がある地点である。

 

 この地形の違いが原爆を見たろうあ者の手話で表す時の表現にもなっている。

 

    手話や手話表現をめぐってとても
大切なことが 消し去られようとしている


 この「違い」と「同じ」を理解しない限りは、いくら言葉でろうあ者の理解や手話の大切さを言っても「空虚」なはなしになるだろう。

 

 同時に手話や手話表現をめぐってとても大切なことが消し去られようとしている。

 

 コスタリカでは、4年前から進めているのが創造性と革新をキーワードに子ども自身が自分の人生を設計するプログラムがすすめられている。

 生徒が幸せで満たされること、同級生と道徳的な価値観を共有し共存、信頼関係を築くこと、自然との間で持続可能な発展ができること、だれかの言葉をうのみにするのではなく批判的に考えて自分自身の考え方を抱くようになること。

 

 この教育は、何も目新しいものではないがそれの話を聞いた日本人は驚くらしい。

 

     言葉をうのみにするのではなく
 批判的に考えて自分自身の考え方を抱く

 

 「だれかの言葉をうのみにするのではなく批判的に考えて自分自身の考え方を抱く」

 

 このことを明石欣造さんは、明確に教えてくれた。ろう学校で意図的に「手話教室」と「口話教室」が分断された。

 

 その時、口話教育で育った聞こえない明石欣造さんは、手話で話すろう学校の同じ生徒を「まるで猿のよう」に身振りをしていると言い、その生徒たちから手ひどい暴力を受けた。

 

 その痛みは今も忘れていないが、よくよく、見てみれば手話で話すことの方が自分が言いたいこととピッタリくる。

 

 そのため手話を学ぼうとしたら先輩はていねいに教えてくれたという。