手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

原爆投下直後 なすすべもなくひたすら歩く

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 (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 西郷さん16歳。

 

 突然の光と強風。

 

 12時過ぎ公園から街を眺める。

 

 長崎の街から立ちのぼる巨大な雲と火炎。

 

 その日に三重(現在の長崎市三重)の親類の家に疎開

 

   自分が通い続けたあの想い出

多きろう学校の地域 為すすべもなく

 

 何となく読んでしまう部分であるが、長崎市内をさけて海岸沿いに三重までの距離は非常に遠い。

 

 11日、朝4時頃稲佐橋付近。

 

 三菱病院、炭化した死体。

 

 それらを通り、松山町付近にやってきた。
 
 自分が通い続けたあの想い出多きろう学校の地域、為すすべもなくひたすら歩く西郷さんたち。

 

 だが、描かれるているのは、「お母さんに支えられた妹と弟の後ろ姿」。

 

 なぜか西郷さんは、3人のずーっと後から、3人を描いている。

 

 遠くに幾組かの避難する人々が描かれているが、たたただ呆然と立ちすくんでいる。

 

  やはりまず一番にろう学校のようすを見に

 

 このとき失われたものが、すべて無塵になり、歩く人々の回りに焼けこげた死体が取り巻いているその絶望からの「逃避行」。

 

 道の尾駅の樹のそばに横たわる人々。

 

 西郷さんは、この歩いた道の情景を決して絶対に永遠に忘れることが出来なかった。

 

 終戦

 

 やはり、西郷さんもまたまず一番にろう学校のようすを見に出かけている。

 

 傾いたあの学舎。

 

 西郷さんの胸には言いしれぬ想いが空転していたのかも知れない。

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 このときのことは、なんの感想も証言されていない。

 

被曝証言 聞こえない空襲警報 振動の度に恐怖心

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   (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

盲教育と聾教育が

  同居する中での教育の矛盾

 

 西郷さんは10人兄姉弟妹の四男として誕生。

 

 父は早朝から夜遅くまで働き、あたたかさの中で西郷さんは育く。
 
 船と電車を乗り継いで1時間かけてのろう学校通学。

 

 ろう学校で一生懸命学んだ文字。

 

 三階建ての学校の二階部分は、盲の生徒が学習。

 

 それぞれが「矛盾」を抱えながらも共に学ぶ学習風景。

 

 西郷さんたちには、学校は一緒でも盲、聾の生徒同士のコミュニケーションが成立していなかったことが証言されている。

 

 この教訓は、過去の問題として片付けてしまってはならない。

 

   創造された共同教育は

新しい提起として教育に突きつけた

 

 特別支援教育とか、インクルーシブ、などと語られている中に「ともかく子どもたちが一緒に学校に居る」ことが、絶対評価として考える傾向があるように思える。

 

 この教育上の矛盾を京都北部の盲学校舞鶴分校、聾学校舞鶴分校、通称舞鶴盲ろう分校で1970年代に創造された共同教育は新しい提起として教育に突きつけた。

 

 そこには、戦争の悲惨さからの新しい民主主義教育を目指すものであったが、
特別支援教育がなにか目新しいものであるかのように強調されもみ消されようとしている。

 

    16歳の初夏 

     17歳までろう学校に通っていたら

 

 中学部にはいると病気がちだった西郷さんは、本を読むことが唯一の楽しみになっていく。

 

 活字の世界に西郷さんは飛び込んでいった。

 

 戦争が始まっても西郷さんには、普段と同じろう学校の教育が行われていた、と感じていたことがうかがえる。

 

 西郷さんがろう学校を卒業した16歳の初夏になるとそうではない事態が刻々と押し寄せてくる。

 

 繰り上げ卒業。

 戦争による。

 

 あと1年間、17歳までろう学校に通っていたら、今の自分は存在していないと証言する。

 

    振動の度に恐怖心が増してゆく

 

 聞こえない空襲警報。

 

 周りの人の様子を窺って逃げる。

 

 身体の心棒まで揺さぶる振動。

 

 隠れる防空壕の中で、振動の度に恐怖心が増してゆく。
 

 

被曝体験記録 長崎 広島 まざまざと思い知らされた取り組みと違い

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     (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 私は広島での取り組みとの違いをまざまざと思い知らされたことがあった。

 

 ろうあ者の証言。それが悲惨であればあるほど、絶望的であればあるほどろうあ者の人々は、淡々として語ってくれる。

 

 その淡々とした表現の中に奥知れぬ叫びを超えた叫びがある。

 

 それを脚色しないであくまでも本人の意に即して記録するのが長崎だった。

 

       ろうあ者の被爆体験が事実に基づいて
     書かれているかどうか訝しい

 

 長崎のろうあ者被爆体験は、長崎のろうあ協会と全通研長崎支部が共に携えて記録されてきた。

 

 その初期、伊東雋祐先生が手話通訳問題研究誌に広島の仲川文江さんにろうあ者の被爆体験 を記録してみたらと提案した。

 

 伊東雋祐先生の手元に送られてきた文は、これだがな研究誌には載せられないだろうからなんとかならないか、なんとかしてほしい、と強い依頼を受けた。

 

 たしかに「文」を読むと伊東雋祐先生の言う通りでだった。

 

 伊東雋祐先生も十分承知しせざるを得ないものだった。

 

 文になっていない断片的な文字が飛び飛びに書かれているものだって到底文章と言えるものではなかったし、手話通訳問題研究誌に掲載出来るものではなかった。

 

 それよりも何よりもろうあ者の被爆体験が事実に基づいて書かれているかどうか訝しいところが多々あった。

 

     ろうあ者の人が話されていることは
          と大きくかけ離れていた

 

 すぐ広島に飛んで、仲川文江さんと会い、証言してくれたろうあ者の人と出会った。何度足を運んだことだろうか。

 

 ろうあ者の人が話されていることは、仲川文江さんの断片的な文と大きくかけ離れていた。

 

 仲川文江さんは、話を聞く前に内容を自分なり組み立てていること、ろうあ者の被爆体験は、「そのろうあ者の手話が解らないのでお父さんに同行してもらって、お父さんの手話から文字を書く」という話だった。

 

       事実にではなく

   自分の主観を先行させる
     とまで言い切られ

 

 あくまでも事実に、ではなく自分の主観を先行させる、とまで言い切られたのには驚いたが証言していただいたろうあ者の方の気持ちを踏みにじるわけにはいかない。

 

 すべていちから私が書き直し、ろうあ者に確かめ、了解を得て、広島からのろうあ者の被爆体験を手話通訳問題研究誌に連載した。

 

 しばらくして仲川文江という名前を私的生活上の問題で出せなくなったので連載を止めたいとの申し入れがあり了解した。

 

 連載記事は、仲川文江さんが個人ですべて書いたのではなく手話通訳編集局長の私がすべて書いたと言ってもいいような内容だったからである。


 その後、私は大病を患い寝込み続けていた。

 

 突然、何の手紙も無く仲川文江著「生きて愛して」の本が一冊送られてきた。

 

 そこには、手話通訳問題研究誌の編集などとは一切関わりなくすべて自分が書いたとする内容だった。

 

      ろうあ者のみなさんの証言が
  個人だけの「著作」として世に出され

 

 彼女の文章でないものが彼女の著作として本として作成されるとは、夢だに思っていなかったからそのショックは隠しきれなかった。

 

 それ以上に、被爆体験を語ってくれたろうあ者のみなさんの証言が個人だけの「著作」として世に出されることは許しがたいものであるとさえ思った。

 

  長崎と広島の取り組みと記録は、大きく異なっていた。

 

 長崎と広島との交流を企画した。

 

   今さら被爆体験を記録することは必要ない
       と長崎と広島の交流は断念 

 

 広島のろうあ協会や仲川文江さんから出されたのは、長崎のような多くの人々との協力のもとで証言を記録すること、ろうあ者の被爆と生活の前後を記録することへの真っ向からの反対だった。

 

 今さら被爆体験を記録することは必要ない、とまで言い切られ長崎と広島の交流は断念したが、その後の事態はその言葉と裏腹になっている。

 

 

被曝体験記録 時間は待ってくれなかった 絵に色付けをすることも

  

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    (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて


 西郷さん66歳の時に証言。

 

 私の記憶に間違いがなければ、この西郷さんの証言のページに飾られた2枚の絵は、「原爆を見た聞こえない人々」のために描かれたものだったはずである。

 

     あまりにも

  リアルであり あまりにも微細

 

  私は、この絵を見て驚きを隠すことが出来なかった。

 

 あまりにもリアルであり、あまりにも微細だったからだ。

 

 49年も前の情景をここまで細部にわたって記憶されている、のだろうか。

 

 人間の記憶の凄まじさを知りつつも思わず長崎に連絡をとった。

 

 証言をさらに確かにするためにのために西郷さんに絵を描いてもらった。

 

 まだまだもっと描きたいとのこと。

 

 消せない大脳に焼き付けられた映像を、そのままペンを走らせて再現する西郷さんの胸中に何が走ったのだろうか。

 

 原画を手にした私には印刷ではとうてい再現できない細部にわたるペン先の跡をただただ見つめ続けるより為すすべがなかった。

 

     時間は待ってはくれなかった 

 

 2001年夏。

 私は、西郷さんがこの世を去られたことを知った。

 

 そして、あの絵に彼が色付けをすると言っていたことも聞いた。

 

 モノクロからカラーへと彩色しようと考えていた西郷さんの想い。

 

 いったいあの絵にどんな色を添えるのだろうか、と考え込まざるを得なかった。

 

 私には、どうしても重々しい色より、カラフルな色が添えられるように思えてならなかった。

 

 それは菊池さん色とイメージがダブっていたからかも知れない。

 

 少なくない被爆絵を描かれた聞こえる人々の絵に反して、聞こえない人の描く原爆絵があまりにも鮮やかな澄んだ色である、との私の強い思いこみがあるのかも知れない。

 

 が、しかし、西郷さんはあの絵に色付けすることはもうないのである。

 

 時間は待ってはくれなかった。                    

 

長崎 被爆者手帳 自分が被爆した証人 手話通訳

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  (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

     モダンボーイ  カレーを食べたくなる

 

 本の写真に登場する中島さんの表情は、いつもモダンボーイの姿。

 

 カッコをつけているわけでもないのだが、オシャレ好きであったことは間違いがない。

 

 長崎の街は、和風と洋風がうまくマッチして混在するモダンな街の文化がある。

 

 中島さんはその先端を受け継いでいたように思える。

 

 車の中央に座る中島さんの若き頃の写真。

 

 佐世保時代のたばこを吹かしたときの写真。

 

 そして、カレー職人の写真。

 

 私は、この最後の写真の中島さんのカレー職人時代の写真を見たとき、瞬時に中島さんの作ったカレーを食べたくなった。

 

 きっと美味であることが、写真から分かるからである。

 

    喜びを広げた中島流コミュニケーション

 

 右手を機械のハンドルに手を置いて、口を結んで見据える中島さんの表情には、職人魂と作ったものに対する自信に満ちた表情が伺える。

 

 手先が器用で、負けず嫌いで、学ぶ時間を惜しまなかった中島さんは、きっと心にピリットくる独自なカレー味を作り出したのではないかと断定的に思えるから不思議である。

 

 今までの人生を総決算するかのように、味の中に味を作った中島さんの心意気が見えてくる。

 

 食べ物を作り、日本人であろうとアメリカ人であろうと人に喜びを広げた中島流コミュニケーション。みんなが中島さんを大切にした気持は、充分理解できる。


     被爆者手帳が

     今からでも取得できる!って

 

 1990年。中島さん84歳。

 

 全通研長崎支部からの便りが飛び込んだ。

 

 中島さんの人生と被爆体験。

 

 わずか5行であるが、読むものの心を打つ。

 

 被爆者手帳が、今からでも取得できる!

 

 46年間の空白と行政のわずかな補償。

 

  それを埋める作業が、証言のはじまりから幕が開く。

 

 46年もの歳月もたったのに、「証人」がないと被爆者手帳が交付されないとは、日本政府はあまりにも非情すぎる。

 

 聞く、話す、語るなどのコミュニケーションが保障されて来なかった日本の戦後処理。

 それはあえて言う必要もないことだが、聞こえない人々の基本的人権を保障してこなかった行政が、聞こえない人々が、初めて自分たちの権利を知ったのに、それを行使しなかったのは聞こえない人々の責任だ、とするのはあまりにも惨すぎる。

 

   手話通訳者を介して話す証言だけで
  被爆者手帳が交付されないのか

 

 なぜ、本人が手話通訳者を介して話す証言だけで、被爆者手帳が交付されないのだろうか。

 

 いや、せめて、行政が出向いて、被爆者手帳を手渡すぐらいのことをするのが、行政の最低限のつとめだろう。

 

 私は、5行の文字に目を走らせたときの空しさと燃えたぎる怒りは今だに忘れることが出来ないでいる。

 

 中島さんが、「詐称」して被爆者手帳を手に入れるとでも言うのだろうか。

 

 行政は、行政のルールがあるが、あの戦時下の大量虐殺の時代に遡り、中島さんが、自分が被爆した証拠として、「証人」を見つけなければならないなんて……

 

   思う度に頬に涙が流れる

          証人を捜す取り組み

 

 中島さんと共に証人を捜す取り組みをした全通研長崎支部のみなさんのようすを思う度に頬に涙が流れる。      

 

 

絶望長崎市街の中で ろうあ協会の仲間との出会い 時間を超えた喜び

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  (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 聞こえない人々は何とかもがき苦しんでいる人々や死んでいく人々に対して、心から援助の手をさしのべたいと純粋に考えている。

 

 だが、聞こえないということは、それすらをも許さなかったのだ。

 

 ただでさえ生きにくい世界で生きていた聞こえない人々が、自分のことばかりを考えるのではなく、自分の出来ることはないか、と葛藤するようすは、激しく私の胸を打つ。

 

  人類の歴史上で最大の大量虐殺
   人として生き
 人として助け合っていく

              こころを失わなかった

 

 何もかもが破壊された絶望長崎市街の中で、多くの人々も人として生き、人として助け合っていく心を失わなかった。

 

 人類の歴史上で最大の大量虐殺というかってない事態の中でさえ、人々の人間的な良心は破壊することは出来なかった。

 

 このことはこれからの次代に永遠に伝えていく必要があるだろう。

 

 その人々の中に、聞こえない人々もいた。

 

 あの時代、人間でありながら人間として扱われなかった時代。

 

 それでも、聞こえない人々は人間性を消して失わなかった、いや、もっとも人間らしい行動したと言うことを証言している。

 

 私たちは同じ人間として、このことをどんなことがあっても大切にしていかなければならないと思う。

 

   「敵国」米軍の仕事

       4時起床という厳しい労働

 

 中島さんだけではなく、今まで被爆した聞こえない人々のすべての証言が人間らしい人間的な行動とったことを明らかにしている。

 

 焼け跡の長崎。

 

 中島さんは、「敵国」米軍の仕事につく。

 

 妻と子と別居して休む間もない米軍住宅での仕事。

 

 3年後には佐世保の将校クラブでの住み込みの労働。

 

 4時起床という厳しい労働の中で佐世保のろうあ協会の仲間と交流。

 

 この仲間たちとの出会いは、時間を超えた喜びの一時。

 

 恋人と会っていたかのようにまで勘ぐられるほどの時間。

 

 手話で話し合う仲間たちの嬉々とした表情と手話の流れが目に映る。

 

 家族への想いから一時長崎に戻りつつも、再び家族とともに佐世保に戻って厨房の仕事をしたと証言する中島さん。

 

 

長崎被曝 手話 で表現出来るあらゆる手段を使って 絶望の長崎市街地

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    (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 中島さんは、19歳でろう学校を卒業。

 

 木工所へ就職し、本棚や机タンスなどの制作をはじめる。

 

   結婚して新居へ 原爆投下地点などとは

 

 卒業後は、陸上競技に夢中。

 

 円盤投げは、健聴者と競技し、2位の成績。さらに柔道も習い始める。

 

 その背景には、聞こえないと馬鹿にされてきたことをバネに何とか自分の力を強くしていきたいという強い意志があったとことが解る。

 

 30歳。

 

 ろう学校の卒業生だった奥さんと結婚。

 

 新居を構え、新しい人生をはじめた場所は、まさに爆心地の近くだった。

 

 1945年8月8日。

 

 食料調達のために、あちこちの田舎に行って食料を仕入れていた日。

 

 約30キロを超える荷物を背負って、疲れ果てた身体で家に帰る。

 

 翌朝。9日。

 

 運命は、まさに疲れが出た中島さんのいのちを守り抜く。

 

    突然、ガラスが大きく割れて

         地震のような

 

 疲れ切った中島さんと奥さんと娘さんは、家で休んでいた。

 

 6歳の男の子だけは家からでて、遊びに出かけていた。

 

 突然、ガラスが大きく割れて、地震のようなふるえ。

 

 3人が気がついたときに、子どもがいない。

 

 必死。

 

 捜す。

 

 が、結局、炭焼き小屋で遊んでいた男の子は真っ黒な顔して登場する。

 

 防空壕への避難。押しかけた防空壕の蒸し暑さ。

 

 3時頃に帰宅。

 

 ガラスが飛び散った家で、家族4人が眠ることが出来た。

 

 中島さんの証言から、安堵の気持ちが私にも伝わってくる。

 

 日頃から聞こえない中島さんたちを案じている隣近所の人が気遣いも伝わってくる。

 

    助けて、と言っているように思えるが

 

 被爆の翌日。

 

 やはり中島さんもまた、ろう学校のあった松山町方面に向かう。

 

 駅前の大きな穴。

 

 壊れた大学病院。

 

 全壊した兵器工場。

 

 飴のように曲がりくねった電車の線路。

 

 とばされて電線にぶら下がっている死体。

 

 「片足鳥居」。

 

 黒こげになって倒れた人々。

 

 馬や牛の死体。

 

 生きているように思えた女の人。

 

 生き残った人もよろよろと痛ましい姿で歩いている。

 

 助けて、と言っているように思えるが聞こえない中島さんには何も出来なかった。

 

     同じ苦しみよう分かち合いながら
  絶望的な長崎の市街地を思い浮かべ

 

 赤ちゃんをおぶって倒れている女性。

 

 息絶え絶えの人々。

 

 原爆で吹き飛ばされた身体の一部が川に浮いている。

 

 それまで働いていた仕事場には、のこぎりらしいものしか残っていなかった。
 
 原爆の凄まじさ。

 

 中島さんは、手話で表現出来るあらゆる手段を使って表現したことは十分予測できる。

 

 中島さんの苦しかった証言。

 

 だが、それを見ていた人々をまた同じ苦しみよう分かち合いながら絶望的な長崎の市街地を思い浮かべたようすが手に取るように私にもわかってくる。