手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろうあ者の人々の苦しみ 哀しみ 喜び を記録できなかった財政状況

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  (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 2000年8月。

 最終校正を打ち合わせた同じ喫茶店でひとりコーヒーを飲み長崎湾に沈む真っ赤な夕日と赤くオレンジ色に染まる長崎湾をぼんやりと眺めていた。

 

 同じ地、同じ場所にいる自分がとても不可思議な気がして、大浦診療所の治療効果もあって心が和んでいた。

 

  「原爆をみた聞こえない人々」の解説をしなければ

 

 その時、私がみんなに投げ掛けておかなければならないことに気がついた。

 

 「原爆をみた聞こえない人々」の解説をしなければ伝わらないのだ、とする気持がナゼか赤みがかった中から澄みきった長崎湾のブルーとさざ波と共に私の前に飛び込んできたのである。

 

 すぐに西川さん(当時全通研長崎支部支部長)に投稿と連載を申し出た。うれしい返答が返ってきた。夜遅い長崎の街で。

 

 私のようなものが、全通研長崎支部の機関誌に投稿させていただけること事態が光栄なこと、という喜びがひろがった。

 

  全通研編集部をしていた頃の私を知る多くの人は、私が自分の嗜好と想いで出版をすすめていると絶対的に信じていた。

 

 私の気持ちは、まったく逆だった。

 

    ひたすら「忍の字」で
           全通研誌の発行を続けてきた

 

 編集部の仕事というのは時代を見通しながらも創造性と文化性が要求される。

 

 それに対立するのが財政である。

 

 それとの葛藤は、言い知れないものがあり、現在の全通研の台所事情を知ると次々とあきらめざるを得なかった企画が頭の中で動き回るぐらい、私のやりたい企画は多くあった。

 

 しかし、ひたすら「忍の字」で、自分の創造的な要求を押し殺して全通研誌の発行を続けてきた。私の気持ちを手話通訳問題研究誌に画きだしてはいない。

 

 このことを書いても当時の関係者で信じる人はいない。

 

 私の気持ちは、そうだったのである。

 

 

長崎原爆 被曝 ろうあ者 の人々の証言を心底真剣に受け止めて

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    (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて


 1994年12月。
 グラバー邸の前のカステラ店の二階の喫茶店での打ち合わせ。
 
 全通研長崎支部の仲間から出版を断られたら断念しよう、そう決意して椅子に腰掛けた。

 

 ろうあ者の被爆体験の記録を出版するためには、1000冊を超える販売がどうしても必須条件だった。

 

 どんなことを言い、全通研長崎支部の仲間が何を言ったのか、今はまったく記憶がない。

 

 だだ、当時、有形無形の困難を抱えていたにもかかわらず全通研長崎支部の人々は快く出版とその販売を快諾してくれたこと。

 

 美味しいコーヒーと下の階から立ちこめるカステラの臭いは一時も私の心を離れたことはない。

 

 その後、それなりのいくつかの困難はあったものの「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)は市販ルートに流れることとなった。

 

   手話を学び手話を研究するものにとって
 避けて通れない「試金石」

 

 長崎のろうあ者の被爆体験の証言集に私が当初から関わっていたからとかの感傷的な気持は全くなかった。

 

 手話通訳研究誌に掲載された文を何度も何度も読み、校正を続けてきた私の胸に、ろうあ者の人々の証言を心底真剣に受け止め理解しているだろうか、という自問自答の問いが渦巻きだして止めようがなかった。

 

 病気療養中の私は、全通研の仲間が必ずそれらを紐解いてくれ、引き継いでくれるだろうと固く信じていた。

 

 手話を学び手話を研究するものにとって、避けて通れない「試金石」が多く含まれていたからである。

 

    人間が人間であるということの証明

 

 人間が人間であるということの証明が、長崎の被爆体験の記録にある、と芯から思った。

 

 時の流れはそういうことをしてくれなかった。

 

 みんなが望んだ微笑みは、どんどんと遠のいていく気がしてならなかった。

 

長崎 原爆を見た聞こえない人々 証言 陽の目を見なかったかも

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 1994年12月末に長崎を訪れたと記憶している。

 

   もう22年余の月日が去った。

    

勇気ある証言を後々まで残しておきたい

 

 手話通訳問題研究誌に連載した長崎のろうあ者の被爆体験をぜひとも日本のすべての人々に知らせるために連載をまとめて出版したいという思いに駆られての私の「個人的」行動だった。

 

 来年、1995年は、戦後50年を迎える。

 

 この期にぜひ、長崎で被爆した聞こえない人々が居たこと。

 

 被爆という悲惨で残虐な行為は長崎のどのような人々の上にも降り注がれたこと。

 

 それだけではなく、「戦後」という言葉で過去の過ぎ去った歴史かのように語られる長崎の被爆は、終わっていないばかりか今もなお存在していること。

 

 それを勇気を持ってろうあ者の人々が全通研の仲間と手を取り合って証言している事実。

 

 この勇気ある証言を後々まで残しておきたい。

 

 言い切れぬ想いをずっしり抱え込んでのひさかたの長崎への訪れだった。

 

   あの日最後の打ち合わせをしなければ
     「原爆を見た聞こえない人々」

   は市販されることはなかつた

 

 あの日、最後の打ち合わせをしなければ、「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)は、市販されることはなかっただろう。

 

 すでに多くのねがいを籠めて出版されていた「手よ語れ」は、出版社が倒産。

 

 それ以降、いわゆる書店を通じて聞こえない人々の被爆体験集を手にする機会が失われていた。

 

 全国の人々にいつかの機会に眼にふれて貰えることすらも出来ないでいた。

 

 私はけいわんという病気に冒されて、いつかよくなったら……いつかよくなったら……という想いだけが残り日々が去り行き、気がつけば全通研編集部の仕事を退いた以上は全通研として出版を企画する立場ではなかった。

 

 今だから書けるが、当時の全通研の主だった中心メンバーにこの出版計画を幾度となく執拗に持ちかけた。

 

 しかし、バランス論や必要性、全国の仲間がもとめているかどうか疑問だなどなどの意見が出されて出版の話で話はまったく進みもしなかった。

 

 苛立ちを感じながら、どうすることも出来ない身体を憎みつつ、ひたすら横たわり、回る天井を睨み健康回復を待つしかなかった。

 

     赤字出版は見えていたが

         最後の望みを託した

 

 出版の最後の望みを託したのは、文理閣社長の黒川さんだった。

 

 赤字出版は見えていた。

 必死な思いで、私は黒川さんに頼み込んだ。

 

 手話通訳問題研究誌に連載していた静岡の高橋節先生の文を校正途中で病気で倒れた私。

 

 サインペンが赤に、ブルーに黄色にと縦横に書き込み、混戦する私の校正紙を嫌とも言わずに引き継いで「聞こえない子らのこと」を黒川さんは出版してくれるかも知れない。

 

 青息吐息の私は寝たきりの姿で電話した。

 

 黒川さんは協力を約束してくれた。

 

 今だから書けるが、ジリ貧の出版業界で小出版社の最たる文理閣がよくぞ引き受けてくれたものだと思い、感謝に堪えない。

 

     長崎の仲間から断られたらもう
  出版は出来ないだろうそんな想い

 

 それから私の苦悩の日々がはじまった。

 

 手話通訳問題研究誌に掲載した長崎のろうあ者の被爆体験の証言をもう一度読み返し、訂正し校正する。

 

 校正紙にサインペンを走らす私は、書き込みを入れるその度、激烈な痛みを感じ倒れた。

 

 これ以上の痛みと苦しみはないという這々の体で最終校正紙を持って長崎を訪ねた。

 

 あのときは私の都合で鹿児島空港から爆発した普賢岳を見下ろしながら長崎空港へ向かった。

 

 1994年の暮れのことだった。

 

 ここで長崎の仲間から断られたらもう出版は出来ないだろう、そんな想いがずーと私の胸に食らい付いて離れてくれなかった。

 

 

長崎原爆 細部にわたる微細な悲惨な情景

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 (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

強烈なショックが見えるような気がする

 

 この紙面を借りて、幾度も書いてきたがやはり、ろう学校の跡地にぜひ西郷さんたち多くの卒業生たちの命をかえりみぬ熱き思いを永遠に記録してほしいと何度も思う。

 

  夜なべもくり返し  一日11時間労働

 

 戦後7月。

 

 西郷さん17歳。

 

 洋服店での見習い。

 

 一日11時間労働。

 しかも家に帰ってのミシン仕事。

 

 夜なべもくり返し無我夢中で働いたことが証言からもうかがえる。

 

 20歳の時に職人として洋服店で必死に働き、もらった歩合制の給与を家に渡せるようになり、30歳で結婚。

 

  両親がろうあ者
 赤ちゃんを育てるのは

         想像も出来ない苦労

 

 二人の子供が生まれ、両親が厳しく優しく援助されたと西郷さんは証言している。

 

 この時代。「名もなく貧しく美しく」の映画ではないが、両親がろうあ者の場合、赤ちゃんを育てるのは現在では想像も出来ない苦労があった。

 

 子どもたちが賢く育ってくれた、と西郷さんは誇らしげに手話で語った。

 

 働くもののみが現せる表情    誇り高き姿

 

 洋服の仕事は、波があり生活は安定しにくかった西郷さん。

 

 32歳で店を変わらざるを得なくなり、腕をどんどん上げていく。

 

 よそ見をしていても縫えるほどだったと言う。

 

 37歳の時に3回の手術をしたが、生き延びてきたと証言する。

 

 45年間働いた洋裁の仕事を62歳で終えたが、証言したときはその腕を生かして、バッグを縫っているとのこと。

 

 扉の西郷さんの自信に満ちた顔。

 

 顔つきが、中島さんのカレー職人の顔つきと重なって見えるのは、はたして私だけだろうか。

 

 長い年月をかけて、腕を磨き、ものを作ってきた働くもののみが現せる表情。労働者の誇り高き姿がある。

 

  結婚してから一度も夫婦げんかは

         しなかったと言い切る愛情

 

 苦労ばかりの時代を生き抜いてきた西郷さん夫婦は、結婚してから一度も夫婦げんかはしなかった、と言い切る愛情で今は二人きりの生活をしていると言う。

 

 自分はたまたま生き残ったが、もう二度と戦争を起こしてはならないと伝言する。

 

 そのための記憶をたどっての絵だったのだろうか。

 

 二枚の絵を注視すればするほど細部にわたる微細な悲惨な情景が描かれている。

 

 今一度、みんなで西郷さんの絵を見つめ直したいものだ。

                          

原爆投下直後 なすすべもなくひたすら歩く

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 (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 西郷さん16歳。

 

 突然の光と強風。

 

 12時過ぎ公園から街を眺める。

 

 長崎の街から立ちのぼる巨大な雲と火炎。

 

 その日に三重(現在の長崎市三重)の親類の家に疎開

 

   自分が通い続けたあの想い出

多きろう学校の地域 為すすべもなく

 

 何となく読んでしまう部分であるが、長崎市内をさけて海岸沿いに三重までの距離は非常に遠い。

 

 11日、朝4時頃稲佐橋付近。

 

 三菱病院、炭化した死体。

 

 それらを通り、松山町付近にやってきた。
 
 自分が通い続けたあの想い出多きろう学校の地域、為すすべもなくひたすら歩く西郷さんたち。

 

 だが、描かれるているのは、「お母さんに支えられた妹と弟の後ろ姿」。

 

 なぜか西郷さんは、3人のずーっと後から、3人を描いている。

 

 遠くに幾組かの避難する人々が描かれているが、たたただ呆然と立ちすくんでいる。

 

  やはりまず一番にろう学校のようすを見に

 

 このとき失われたものが、すべて無塵になり、歩く人々の回りに焼けこげた死体が取り巻いているその絶望からの「逃避行」。

 

 道の尾駅の樹のそばに横たわる人々。

 

 西郷さんは、この歩いた道の情景を決して絶対に永遠に忘れることが出来なかった。

 

 終戦

 

 やはり、西郷さんもまたまず一番にろう学校のようすを見に出かけている。

 

 傾いたあの学舎。

 

 西郷さんの胸には言いしれぬ想いが空転していたのかも知れない。

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 このときのことは、なんの感想も証言されていない。

 

被曝証言 聞こえない空襲警報 振動の度に恐怖心

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   (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

盲教育と聾教育が

  同居する中での教育の矛盾

 

 西郷さんは10人兄姉弟妹の四男として誕生。

 

 父は早朝から夜遅くまで働き、あたたかさの中で西郷さんは育く。
 
 船と電車を乗り継いで1時間かけてのろう学校通学。

 

 ろう学校で一生懸命学んだ文字。

 

 三階建ての学校の二階部分は、盲の生徒が学習。

 

 それぞれが「矛盾」を抱えながらも共に学ぶ学習風景。

 

 西郷さんたちには、学校は一緒でも盲、聾の生徒同士のコミュニケーションが成立していなかったことが証言されている。

 

 この教訓は、過去の問題として片付けてしまってはならない。

 

   創造された共同教育は

新しい提起として教育に突きつけた

 

 特別支援教育とか、インクルーシブ、などと語られている中に「ともかく子どもたちが一緒に学校に居る」ことが、絶対評価として考える傾向があるように思える。

 

 この教育上の矛盾を京都北部の盲学校舞鶴分校、聾学校舞鶴分校、通称舞鶴盲ろう分校で1970年代に創造された共同教育は新しい提起として教育に突きつけた。

 

 そこには、戦争の悲惨さからの新しい民主主義教育を目指すものであったが、
特別支援教育がなにか目新しいものであるかのように強調されもみ消されようとしている。

 

    16歳の初夏 

     17歳までろう学校に通っていたら

 

 中学部にはいると病気がちだった西郷さんは、本を読むことが唯一の楽しみになっていく。

 

 活字の世界に西郷さんは飛び込んでいった。

 

 戦争が始まっても西郷さんには、普段と同じろう学校の教育が行われていた、と感じていたことがうかがえる。

 

 西郷さんがろう学校を卒業した16歳の初夏になるとそうではない事態が刻々と押し寄せてくる。

 

 繰り上げ卒業。

 戦争による。

 

 あと1年間、17歳までろう学校に通っていたら、今の自分は存在していないと証言する。

 

    振動の度に恐怖心が増してゆく

 

 聞こえない空襲警報。

 

 周りの人の様子を窺って逃げる。

 

 身体の心棒まで揺さぶる振動。

 

 隠れる防空壕の中で、振動の度に恐怖心が増してゆく。
 

 

被曝体験記録 長崎 広島 まざまざと思い知らされた取り組みと違い

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     (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 私は広島での取り組みとの違いをまざまざと思い知らされたことがあった。

 

 ろうあ者の証言。それが悲惨であればあるほど、絶望的であればあるほどろうあ者の人々は、淡々として語ってくれる。

 

 その淡々とした表現の中に奥知れぬ叫びを超えた叫びがある。

 

 それを脚色しないであくまでも本人の意に即して記録するのが長崎だった。

 

       ろうあ者の被爆体験が事実に基づいて
     書かれているかどうか訝しい

 

 長崎のろうあ者被爆体験は、長崎のろうあ協会と全通研長崎支部が共に携えて記録されてきた。

 

 その初期、伊東雋祐先生が手話通訳問題研究誌に広島の仲川文江さんにろうあ者の被爆体験 を記録してみたらと提案した。

 

 伊東雋祐先生の手元に送られてきた文は、これだがな研究誌には載せられないだろうからなんとかならないか、なんとかしてほしい、と強い依頼を受けた。

 

 たしかに「文」を読むと伊東雋祐先生の言う通りでだった。

 

 伊東雋祐先生も十分承知しせざるを得ないものだった。

 

 文になっていない断片的な文字が飛び飛びに書かれているものだって到底文章と言えるものではなかったし、手話通訳問題研究誌に掲載出来るものではなかった。

 

 それよりも何よりもろうあ者の被爆体験が事実に基づいて書かれているかどうか訝しいところが多々あった。

 

     ろうあ者の人が話されていることは
          と大きくかけ離れていた

 

 すぐ広島に飛んで、仲川文江さんと会い、証言してくれたろうあ者の人と出会った。何度足を運んだことだろうか。

 

 ろうあ者の人が話されていることは、仲川文江さんの断片的な文と大きくかけ離れていた。

 

 仲川文江さんは、話を聞く前に内容を自分なり組み立てていること、ろうあ者の被爆体験は、「そのろうあ者の手話が解らないのでお父さんに同行してもらって、お父さんの手話から文字を書く」という話だった。

 

       事実にではなく

   自分の主観を先行させる
     とまで言い切られ

 

 あくまでも事実に、ではなく自分の主観を先行させる、とまで言い切られたのには驚いたが証言していただいたろうあ者の方の気持ちを踏みにじるわけにはいかない。

 

 すべていちから私が書き直し、ろうあ者に確かめ、了解を得て、広島からのろうあ者の被爆体験を手話通訳問題研究誌に連載した。

 

 しばらくして仲川文江という名前を私的生活上の問題で出せなくなったので連載を止めたいとの申し入れがあり了解した。

 

 連載記事は、仲川文江さんが個人ですべて書いたのではなく手話通訳編集局長の私がすべて書いたと言ってもいいような内容だったからである。


 その後、私は大病を患い寝込み続けていた。

 

 突然、何の手紙も無く仲川文江著「生きて愛して」の本が一冊送られてきた。

 

 そこには、手話通訳問題研究誌の編集などとは一切関わりなくすべて自分が書いたとする内容だった。

 

      ろうあ者のみなさんの証言が
  個人だけの「著作」として世に出され

 

 彼女の文章でないものが彼女の著作として本として作成されるとは、夢だに思っていなかったからそのショックは隠しきれなかった。

 

 それ以上に、被爆体験を語ってくれたろうあ者のみなさんの証言が個人だけの「著作」として世に出されることは許しがたいものであるとさえ思った。

 

  長崎と広島の取り組みと記録は、大きく異なっていた。

 

 長崎と広島との交流を企画した。

 

   今さら被爆体験を記録することは必要ない
       と長崎と広島の交流は断念 

 

 広島のろうあ協会や仲川文江さんから出されたのは、長崎のような多くの人々との協力のもとで証言を記録すること、ろうあ者の被爆と生活の前後を記録することへの真っ向からの反対だった。

 

 今さら被爆体験を記録することは必要ない、とまで言い切られ長崎と広島の交流は断念したが、その後の事態はその言葉と裏腹になっている。