手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

手話 は ろうあ者 の 母国語 であるは錯誤 1954年 京都 の 手話

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手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
 {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

「1954年手話冊子」 第1章 (1)-8

 

   生まれながら音声言語をきくことのない

ろうあ者を 思惟や心性を

この社会から切り離して考える錯誤

 

 生まれながら音声言語をきくことのないろうあ者ー彼等の知性は低いといわれ、適応性に乏しいといわれ、而も(以下 しかも)彼等が、言語を知らない以前は、殆ど動物的段階とも考えられている。

 

 のみならず彼等の心性は、原始未開人のそれに近いのではないかということも、屡々(注 しばしば )の事実として、思われる時さえある。

 

 だからといって彼等の思惟や心性をこのままこの社会から切り離して、未開社会や動物社会と同一に考えることは、その錯誤も甚だしい。

 

 なぜなら彼等も又、この社会に行き、この社会の慣習に従って生活しているのではないか。

 

  日本の家庭や学校や社会で教えられ
     日本語を学習し
日本語で思考し日本語で伝達

 

 現社会には、現社会の、そこに集団表象があり、環境の雰囲気がある。

 

 日本には日本人の、米国には米国人の、集団的な表象があり、パトス性がある。

 

 そうして彼等は、日本の家庭や学校や社会で教えられ、日本語を学習し、日本語で思考し、日本語で伝達し報告する。

 

 又彼等の触れるもの、体験し得るものも、ほとんどが日本の、しかもその地域の事物ああり事柄である。

 

  「手話はろうあ者の母国語である」
という事は出来ない僕逹と同様に

   日本語であらなければならない

 

 こうした意味から、少なくとも、厳密に手話について考える場合には「手話はろうあ者の母国語である」という事は出来ないのである。

 

 彼等にとって、母国語はやはり、僕逹と同様に日本語であらなければならないのだ。

 

 そこで私達が通常「手話」といっているものの中には、前述のよう「身振り、表情」それに「手話」(指文字)も含めているのだが、厳密にはこの指話は、指話や指文字は、単語を指で交換に表現するものである。

 

  指文字は日本語を
空間に伝達する音節文字の役割

 

 外国語については、アルファベットを、日本語については、五十音を空間に指で書く代わりに、例えば、親指を横にしてあるa、又は「ア」という具合に指のしめし方に一定の約束をもい記号的表現するのである。

 

 従って地名「アマガサキ」とか「トヨオカ」など、人名「ハナコ」とか、「タロウ」とか、手話では表現出来ない語を補うため、又は、文章音声をそのまま伝達、報告するために使用するものであって、親指一本で「男」とか「長」の意味を持った手話とは、自ずからその性質を異にするものである。

 

 というより、指文字とは、日本語については、空間に伝達する音節文字の役割を果たすのあって、かのモールス信号や手旗信号に近いものである。

 

 だから音声言語の習熟に不得手であり、あるいは、その段階にまで達し得ないろうあ者にとって、この指文字は充分使用することが出来ないし、その記号を憶えることにもあまり関心を示さないのである。

 

手話はろうあ者の母国語と国民や日本に住む集団のつながりを否定する1954年 京都 の 手話

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手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
 {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

  誤解されやすい、二、三の点について記述

 

「1954年手話冊子」 第1章 (1)-7

 

  僕らの考える手が、シンボル的表現として、抽象段階を持っているものであるとするなら、又その段階が、音声言語に比して、どのような欠陥を伴っているものであるか。

 その限界について僕らをできるだけ研究をつけていきたいしこの小冊子では、これらの問題の手がかりともしたいと思うのである。

 

                          Ⅱ

 

 以上で大体「手話」の概念的意味について触れたが、ここで私達は誤解されやすい、二、三の点について記述しておきたい。

 

 それは1項にも述べたように「手話」は単なる「身振りや合図」のサイン的利用から、普遍的な意味を持つ、シンボル的表象として、発達してきた触覚言語が中心となっているという事である。

 

  シンボル的表現にまで
発達し得た表現の過程を「手話」と呼ぶ

 

 例えば、幼聾児が、自己の体験として捉え、両手を大きく動かして表現する表象的なサイン「汽車」から「きしや」という文字記号を知り、更に右手首を左手で握り、右手指を開閉して概念的な「汽車」を表すシンボル的表現にまで発達し得た、その表現の過程を「手話」と呼ぶのだという事である。

 

 勿論。我々の考える「手話」のすべてが、普遍的意味を持ち、高度にシンボル化されているからというにそうではない。

 

  伝達を補っている
手段をも含めて「手話」と呼んでいるのである

 

 我々が日常使用している「手話」は、抽象段階も低く、より原始的に、単なる「身振りや合図」や、「表情」に頼っている場合も多くあり、更に、手指で空間に文字を書き、又は「指文字」(付録参照)を以て、伝達を補っており、一般的には、これらの手段をも含めて、「手話」と呼んでいるのである。

 

 我々は今、「身振り、表情」「手話」「指文字」を、劃然(注 区別がはっきりとしているようす)と区別してそれらを使用しているわけで訳ではなくその抽象段階を追尋して検討を加えるような研究にも不足していた。

 

    手話はろうあ者の母国語である
 一部の人々の意見について検討

 

 (注) 「手話はろうあ者の母国語である」一部の人々の意見について検討してみよう。

 

 そして、この言葉を言葉の感化的、誇張的表現に用いているならば、それも了解されようが、例えば彼等が、シンボル的思考ー表現する、手話記ーそれは我々のように言語機能を用いないいいとしても、表現された、あることやあ物は、やはり、彼等をもう含めた、集団的地域社会に普遍的共通的な物であるに違いない。

 

   母語の主張は社会の集団の中で
   言語を習得したものである
       手話の繋がりを否定

 

 即ち、彼等が表現する「櫻(桜)」や「松」や「山」や「川」はどこの国に咲いている花でも、どこの国に移植してた櫻でもないはずだ。

 

 然も彼等は「櫻」とか「松」とかいう文字記号に於いて、我々との伝達の共通性、普遍的適応性を有している。

 

 のみならず、この事は「手話」といえども、彼等が日本人として、この社会の集団の中に、言語を習得した者である以上、そのパース的(注 解析)な契機は、明らかに、この国の、国民のパトス(注 外界を受容して内面に生まれる心的状態)性に繋がっているのである。

 

 

サリヴァン女史が述べている合図や身振りをそのまま「手話」と考えることはまちがいである 手話とは何か 言語とは何か(その3 )ヘレン・ケラーからまなんだ1954年 

 

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手話を知らない人も

  手話を学んでいる人もともに
  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

「1954年手話冊子」 第1章 (1)-6

 

 更に、同じ日の出来事について、彼女の偉大なる教師でもあったサリバン先生は次のように述べている。

 

 「彼女には、どんな物も名をもっているということ、そして、手のアルファベットが彼女の知りたいと思っているあらゆることに対する鍵であるということを学びました。

 

 ‥‥‥その朝、彼女が顔を洗っていいたとき、彼女は水という名前を知りたいと思いました。

 

 彼女が何らかの名前を知りたいと思うときは、それを指さして、私の指を私の手をそっと叩くのです。

 

  ヘレン、何も持っていない方の
手にw-a-t-e-rと綴り

 

 私はw-a-t-e-rと綴りました。そして朝飯の後までそのことを何も考えませんでした。

 

 ‥‥‥(その後で)私達はポンプ小屋に行きました。そして私は、ヘレンにポンプをおしている間、水の出口の下に、コップをもたせておきました。冷たい水がどっと流れて流れ出てコップを充たしたときに、私は、ヘレンの、何も持っていない方の手にw-a-t-e-rと綴りました。

 

 手の上にかかってくる冷たい水の感覚に密接に結びつきついてきた。

 

この言葉は、彼女を驚かしたようでした。彼女は、コップを落とし、釘づけにされたように立っていました。

 

 新しい光明が彼女の顔に現れてきました。

 

 彼女は数回w-a-t-e-rとつづりました。それから彼女は地上にしゃがんで名前をきき、ポンプと垣根を指しました。そして急に振り返って、私の名前を聞いたのです。

 

 私はteacherとつづりました。

 

 家に帰る途中を、彼女は知っている言葉に、新しい言葉を三十もつけ加えたのでした。

 

 翌朝、彼女は輝いた仙女のように起き上がりました。

 

 今や、すべてのものが名前をもっているはずです。

 

  かわるべき言葉を用い始めるや否や
それまで使っていた

   合図と身振りをやめました

 

 どこに行っても、彼女はうちで学ばなかった物の名前を熱心にききました。彼女は友達に綴ることを熱望し、会う人ごとに、字を教えてくれとせびりました。

 

 彼女は代わるべき言葉を用い始めるや否や、それまで使っていた合図と身振りをやめました。

 

 そして新しい言葉を覚えることに、最も生き生きしたよろこびを覚えるのです。そして私達は、彼女の顔が毎日毎日、豊かな表情となるのに気づているのです。」

 

 つまり、彼女は、すべての物が名前を持っているということー言語の意味の真の姿を発見したのであり、彼女は人間的な「意味」の世界に住み得るシンボル機能を了解したのであった。(カッシーラ「人間」)そして言語とは、まさしくこのようなものにほかならないことを、僕達は如実にして想い得るのである。

 

   合図や身振りを
そのまま「手話」と考えることは

   まちがいである

 

 ところで「手話」とは一体何であるか。

 
 私たちはここで判然しておかなければならないのは「彼女は代わるべき言葉を用い始めるや否やそれまで使っていた合図と身振りをやめみました」とサリヴァン女史が述べている、合図や身振りを、そのまま「手話」と考えることはまちがいであるという事である。

 

 シンボル機能は普遍的適用性の原理であることを発見するまでの、彼女合図や身振り、又はそういった段階にある、幼児や一般ろうあ児の動作や合図は、単にある物、ある事と、そういった合図や身振りのある種のサインとの間に、固定した連合は出来ているとしても、このような連合の系列は、なお人間の言葉の真の姿と意味を了解させるものではない。

 

  ろう児とその保護者
   独特の伝達方法

 

 ろう児をみていると、彼等らとその保護者だろハートの間に、独特の伝達方法がとられている。

 

 例えば「ドンドンと太鼓をうつまね」をすると、学校の先生の事ことであったり「シロ、シロ(白)というと砂糖であったり、「アメ、アメ(雨)だと「おしっこ」であったりする。

 

 又お月様がでている夜「コンバンワ」と教えると、月のない日はそれを云(以下言)わないといった工合である。

 

 そうして、こうした事柄や事物と、サインの固定的な連合の段階に於いては、私達はこれを「身振り」「合図」として「手話」と区別しなければならない。

 

   身振りや合図を

単なるサインとして用いる段階から
    人間思考の普遍的な言語としての手話

 

 即ち「手話」とは、この身振りや合図を、単なるサインとして用いる段階から、人間思考の普遍的な言語として、もっともこれは言語記号以外の触覚記号を以てするシンボル的表現(言語)として、考えることができるのである。

 

 ただ、こうした触覚言語は、音声言語に比べて、技術的には著しく不利である。

 

 この点は次章において、明らかにされると思うが、確に不利であるある。

 

 ただし、不利だからといって、その根本的なシンボル的思考や表現の発達を妨げるものではないであろう。

 

手話とは何か 言語とは何か(その2 ) を ヘレン・ケラーからまなんだ1954年に提起 京都 の 手話

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 手話を知らない人も

   手話を学んでいる人もともに
 
 {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

「1954年手話冊子」 第1章 (1)-5

 

 彼女(注 ヘレン・ケラー)は「私の生活」という自叙伝の中に、次のように述べている。

 

「ある日、私が新しい人形持って遊んでいますと、サリバン先生がつづれ布で造った大きい人形を私の膝の上において、「d-o-l-l」と語りながら。 二つとも同じ名前であることを私に分からせようとなさいました。
 (彼女はそれより前に一つの人形持っておりその名前も知っていた。)その日はすでに私達は「湯吞」と「水」とで大変苦しんだ後でありました。

 

  私の感情の発作が鎮って後も
     悲哀もまるで感じません

 

 サリバン先生は俺m-a-gが、湯吞みでw-a-t-e-rが水であるということを、はっきり教えるために、苦しまれたのですが、私がいつまで經(以下 経)っても二つを混同をしました。

 

 先生は失望して、一時中止して居られましたが、機会を見てもう一度試みようとなされれました。

 

 私が繰返しての試みに癇癪を起こして、新しいお人形を手にとるなり、床に叩きつけました。そして、私は砕けたお人形の破片を足先に感じながら痛快に思ったのです。私の感情の発作が鎮って後も悲哀もまるで感じませんでした。

 

 私はこの人形を愛していなかったのです。

 

   住んでいた沈黙と暗黒の世界
  何らの高い情操もない

 

 それに私の住んでいた沈黙と暗黒の世界には、何らの高い情操もないのでした。私は先生が破片を爐(以下 炉)の片隅に掃き寄せていられる様子を感じましたが、ただ腹立ちの原因がとり除かれたという満足を覚えただけです。

 

 ところが、先生が帽子を持って來(以下 来)て下さったので、私は暖かい日向に出かけるのだと知って、その考えーもうもしも言葉のない感情を考えると呼ぶことが出来るとすればーに、私は喜んで躍り(以下 踊り)上がったのでした。

 

    甦って来ようとする思想のおののき

 

 二人は井戸小屋を覆って忍冬(?注 文字読めず スイカズラ?)の甘い香りにひかれて、庭の小径を下っていきました。

 

 誰かが水を汲み上げていましたので、先生は樋口の下に私の手をおいて、冷たい水が私の片手の上を勢い良く流れている間に、別の手に初めてゆっくり、次には迅速に「w-a-t-e-r」という語を綴られました。

 

 私は身動きもせず立ったままで、全身の注意を先生の指の運動にそそいでいました。

 ところが突然私には何かしら忘れていたものを思い出すような、或いは甦って来ようとする思想のおののきといった一種の神秘的な自覚を感じました。

 

 この時、初めて私はw-a-t-e-rは、今自分の片手の上を流れている不思議な冷たい物の名前であることを知りました。

 

    生きた一言
私の魂をめざまし
光と希望と喜びを与え
私の魂を開放する

 

 この生きた一言が、私の魂をめざまし、それに光と希望と喜びを与え、私の魂を開放する事になったのです。勿論、まだまだ数知れなぬ障碍物が残っていましたが、それはやがて取除くことの出来るものばかりでありました。

 

  この言葉ほど、言語について
  判然記述したものはない

 

 私は急に熱心になって、いそいそと井戸小屋を出ました。

 

 こうして物には皆名のあることが分かったのです。しかも一つ一つの名はそれぞれ新しい思想を生でくれるのでした。そして庭から家に帰った時、私の手に触れるあらゆる物が、生命を以て躍動しているように感じ始めていました。」

 

 当時、満七才になる盲目ろうあの少女が、このような劇的な感動を体験し、それを記憶していたということは、驚歎すべきことだ。

 

 然し又、この言葉ほど、言語についての判然記述したものはないであろう。

 

手話とは 何か 言語とは 何か を1954年に提起していた 京都 のろうあ者の人々 手話 通訳者

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 手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

「1954年手話冊子」 第1章 (1)-4

 

  1954年手話冊子は、手話の話における手話の順序と音声との相違と対比を明らかにして例示して

手話とはなにか、

言語とはなにか、

を追求して考えようとの試論を提案している。

 

   ろう児・聴覚障害
  特有の文章の特徴はない
                 と普通学級の先生

 

 先に述べておくが、この相違と対比を読んでみると最近の若者達を中心とした「音声会話」が手話の順序とほとんど変わらないのではとさえ思える。

 

 主語・述語・接続詞などなど、それまで手話を主として使うろうあ者の特徴として述べられていたことが、そうではなく聞こえる人々の間で「常用化」してしまっているのではないか。

 

 手話、手話、と言うが、似て非なるものであり、手話の広まりを切望したろうあ者の人々を時には「侮辱」「侮蔑」しているとさえ思える哀しみを感じる。

 

 1980年代に京都の聴覚障害児は、ろう学校の生徒数より4倍以上が普通校で学ぶことが常態化していた。
 
 そのため普通校の担任達も聴覚障害児と健聴児が一緒に学ぶ学習形態を熱心に研究・検討・話し合っていた。

 

 その時、従来研究者やろう学校の先生達が盛んに主張するろう児・聴覚障害児特有の文章の特徴について多くの疑問の声が出された。

 

 文章として成立していて、ろう児・聴覚障害児特有の文章の特徴、は見られないということであり、むしろ「ろう児・聴覚障害児特有の文章の特徴」とされる「特徴」が健聴児に次第に増えてきているという指摘だった。

 

 このことは、言語獲得と文字表現という問題として踏まえておきたい。

 

 問題は、以下の例文の「(  )内は音声言語による」とされる部分が、日常会話で最近の若者達を中心とした「会話」では、少なくなっているのではないかということである。

 

  旅行帰りのある青年Aと友人Bとの
手話による対話と音声言語の比較について

 

 今、旅行帰りのある青年Aと、友人Bとの対話を考えてみよう。
(  )内は音声言語による場合である。

 

B「帰った(のは)何時

 

A「昨日午後すぎ(だよ)」

 

B「(どう、向こうは)北海道は、涼しい?(涼しかっただろう)」

 

ーこの場合、質問や疑問は表情で表す。そうして、「手話」はいつの場合もこれらを作っているのである。

 

A「(とても)涼しかった(よ)。京都(は)暑い。(暑かっただろう)」

 

B「(うん、もううだる程だろうようだったよ)暑い。暑い。摩周湖はよかったかい

 

A「よい。大へんきれい。山。バス。うねうね道。見下ろすー美しい。良い。(ああ、とても良かったよ。山の中腹に出来ている道をバスがのぼっていくんだ。うねうねまわりくねったその道をのぼりつめて見下ろすとね、あの神秘的な湖が見えるんだ。蓬々と霧がかかってね。湖の中に浮かんでる小島が、ぽっかりと見えているんだ。素晴らしい景観だったよ)」

 

 ざっと、こういう調子であるが、聴者は、これによっても、大体「手話」の概念的なものを理解なさることと思う。

 

 そして私たちは今、「手話とは何か」という事柄とともに、「言語とは何か」ということを考えていかなければならないようだ。

 

 そして、この問題については多くの詳しい論述があるのだが、私達は今、ヘレン・ケラーの言葉をひいて、この問題の手がかりとしよう。

 

手話の特徴簡略性 主人 けが 黒人 身体障害  京都 の 手話

手話を知らない人も

         手話を学んでいる人もともに

{新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

 最近手話について、よく二度繰り返す、三度繰り返す,などのことが断定して書かれている。

 

 例えば京都という手話は、二度、繰り返すという。

 

 京都は太陽の形で「西」を表し東京は「東」を表すことから手話がされてきた。

 

 これは、明治時代の手話法・手勢法などのよるものであるが、首都が東京に移るまでは東。西で手話表現されることはなかった。

 

 音声と漢字では「京」「都」「きょう」「と」繋がるので二度繰り返すと言っているのだろうと推測される。

 

 日本手話として音声対応手話と異なると主張しながら実際は音声通りにその語彙数を音声の数だけ表示すると言う考えには驚かされる。

 

 手話の特徴には、「一表現だけですむ」という簡略性がある。

 

 音声言語で言うならば非常に、長くなるが、手話では一度だけの表現で済むという特徴がある。

 

 このことを、見落としてはならないのである。

 

 過去の先達者がコミュニケーションとしての手話を大切にしていたのかを理解してほしいものだ。

 

 従って、手話についても、絶対、これだけとか、という手話表現でないことを知っておいてほしい。

 

  主人。

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家の上のに押さえつけて立つ人=長。主婦と主人との関係の手話表現を比較して見ておいてほしい。

 

けが。

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 よく頭に、傷を負ったことから、頭の傷という表現である。

 

 両手を斜めに頭にぶつけるようなしぐさは、「きず」と「できもの」との違いなどを区別するために、よく考えられた手話と言える。

 

 足にけがしたときは、足のけがした部分に手で切れたようなしぐさをする、

 

 黒人(日焼けした顔・黒んぼう)

 

 

 黒んぼう、黒人と呼ばれていた時代。

 

 髪の毛を撫でて黒を表し、顔全体を回すことによって黒い顔として黒人と表現したのである。

 

 夏に日焼けして顔が黒くなることと同一である。

 

 よくどれだけ日焼けしたかを競う「黒んぼう大会」が海水浴場で行われていた。

 

  1950年代の時期には、アメリカ人が日本人とする手話は、目のつり上がったJとしていたことは、京都に観光に来ていたアメリカ人のろうあ者と手話で話をした時に知って驚いたという逸話がある。

 

 このように、色を表現する方法はいろいろある。

 

 例えば、月経の場合は、唇を人差し指をヨコに置いて、赤を表現していた。

 

 赤は血でもある。

 

 口紅の赤は別の手話表現があった。

 

様々な場面において、色の表現は手話では多種多様である。


身体障害の手話について

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身体・障害の手話は、身体全体と「壊れる、破損する、故障する」と手話で表されている。


写真の場合は、者=人々が省略されている。

 

 身体障害という言葉に、害があるから、害という言葉をひらがなにするという考え方が近年横行している。

 このことについて、既に手話通訳問題研究誌で伊東雋祐氏が述べている。私は必ずしもその指摘は正しいと思っていない。

 

 身体を全身といして表現する手話。

 

 そして、それが、壊れている、破損している、故障していると手話。

 

 戦前は、不具者など言われていたため「不具」という手話がある。

 

 1950年代には、身体障害者は盲人、ろうあ者、肢体不自由者を意味して他の障害者は排除されていた。

 

 そのことを考慮するならば「障害」を文字の通りに、また言葉の通りに表現していなかったことにむしろ注目すべきだろう。

 

 この時代は、身体障害者とは、盲人、ろうあ者、肢体不自由者だけを身体障害者の概念の中に入れていた国・厚生省の考え方こそが問題であって、手話表現そのものを問題にするのは大いに疑問である。

 

手話 きちんとした意味がある 皮膚 月経 女中 兄弟 姉妹 哀しみのまなざし 京都 の 手話

手話を知らない人も

  手話を学んでいる人もともに
  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

  皮膚は、手の甲をつまんで少し引っ張る手話をしている。皮膚が焼けた、などの場合に使われるが、この一つので「皮膚」を表す手話は、見事としか言いようがない。

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  近年では、「生理」ということばが使われているが、月経・メンス(英: menstruation, menses のカタカナ表記の省略形)、などといわれていた時代に、「赤」(血の意味もある)と月で月経と手話で表されていた。

 

 月経の周期が、月の周期と重なり合うために表現されている。この手話は、とても大切である。

 

 現在では生理用品が多くあるが、それがなかった時代、女性は今よりもはるかに苦労した。

 

 ろうあ者の女性にとっては、さらに累積する恥ずかしさや困難が多くあったことを思い浮かべてこの手話を、大切にしてほしいものだ。

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  女中さん。

 

 このような名称は最近の日本では使われなくなっている。

 

 はい・はいと手のひらをあげて手を合わせて、頭を下げる、ことを一つの動作にまとめつつも、目は上目遣い。

 

 金持ちに雇われてある意味24時間働かさせられている女中さんへの思いが込められている。

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  聞こえない子を産んだとして離縁されたり、子どもをろうあ学校に通わせるため少なくないお母さんが、女中などのさまざまな「下働き」をしていることを充分承知していたからこそろうあ者は、手話でこのように表現したと聞いている。

 

 女性の社会進出が極端に狭められている中で、聞こえないわが子を育てるために働いたお母さん方の気持ちが、この上目遣いに凝縮されている。

 

     そして兄弟。兄・弟は京都の場合は、中指を上下に離して、上の兄・下の弟と年齢で上下に分けた。

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(大阪の場合は薬指が多かったと明石欣造さんは言うが、指の動きとしては薬指のほうが動かしやすいという手指の機能にそった無理のない動きであった。もちろん大阪の手話の場合は小指まで曲げて薬指だけにするということはなく、ごく自然体の手指の動きであった。)

 

   姉妹は、両手の小指を上下に動かす。兄弟姉妹は、両手の小指と中指を立てて上下に動かす。

 

 上下に動かすと書いたが、二度三度と繰り返すのではなく、相手に分かれば一度の動きだけだった。