手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

さまざまな色彩関係の仕事に就いていたろうあ者が多かったため色の手話表現は多彩 緑 青くなる 黒 白 京都の手話

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手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

緑。

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 この緑の手話などを手話通訳問題研究誌に掲載した時に、伊東雋祐先生の解説には基本的誤りがあったが、訂正しないまま掲載してしまったのでここで改めて訂正したい。

 

 他にも多くあるが、すでに訂正している。

 

 近年、伊東雋祐先生をまるで手話の名手であり、超越した手話の使い手のように書いている人が居るが、伊東雋祐先生の手話や手話通訳はアバウトなところが多く、解らない処は「端折る」ところがあった。

 

 完全な人間はいないのだから、あまり個人を名手だとか、超越した手話の使い手、などと見るよりは、弱さを含めた人間味ある手話通訳者として理解していただきたいとも思う。

 

 ともに同時代に手話や手話通訳に関わったものとして。

 

  明石欣造さんの「緑」の手話は、舌の形を葉に見立てて葉脈の中軸を人差し指で示して葉っぱ=緑という手話で表している。

 

 この人差し指をうねらせると「虫」という手話にもなる。

 

 京都には、染め、色つけなどのさまざまな色彩関係の仕事に就いていたろうあ者が多かったため色の手話表現は多彩である。

 

青くなる。

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 この場合は、目の縁を回して眼の周りが青くなる時のことを表現した青という手話である。

 

 青年の時の「青」と区別されているし、尻の青い(蒙古斑)などの場合と異なった手話表現がされていた。

 

 黒。

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 墨(右手握り拳)と左手手のひら(硯)で墨をする動作をして黒という手話で表現している。

 

 墨は、ただ黒と言うだけでなく墨色には数え切れない黒色がある。日本画専攻があった京都ろう学校だからこそ多彩な黒色表現がある。

 

 そのひとつとして紹介されている。

 

白。

 

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 白も、歯をさして白とする手話があるが、この場合は、ホッペタを膨らまして丸の指を頬に付けているので、白粉を塗る動作=白、の手話と表現されている。

 

修身の挿絵を眺めて? 道徳 算数 京都の手話

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手話を知らない人も

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  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

道徳。

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 両手の拳を裏返して、トントンと二度ほど拳を合わせる手話で道徳。

 

 この手話は、関東などとも共通しているが、先に述べた大原省三さんは、戦前の修身の教科書に書かれた挿絵を手話として取り組んだと考えられるとその教科書を見せてくれた事を想い出す。

 

  天皇への忠誠心の養を基に、孝行・柔順・勤勉などを教えた教科書の漢文。

 

 生徒たちには、とても難しくて彼等は修身の教科書に書かれた挿絵を見続けていたのではないかと言う。

 

 その挿絵には、楠木正成・正行父子の「桜井の別れ」で、楠木正成が形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。その正行が刀を受け取る場面が、描かれていた。

 

 刀を受け取る側は、そのまま刀を握るのではなく逆に腕を返して刀を目上から下に下げて受け取る。

 

 両手の手のひらをねじって受け取る手話表現は、手腕の機能性からあまりないので、大原省三さんの言っていた話を改めて考えさせられる。

 

 なお写真では、京都の手話では道徳の手話は、肩よりやや下で両手の握り拳を合わせる。

 

 この位置は、手話表現上では非常に大事である。最近のテレビで雨の手話を胸から下で表現していたが、高山から雲から降る雨を表現したのであれば解らないことのないが、平地で雨にあうのは頭上より上である。

 

 手話の表現には、いろいろあるが位置、動きはとても大切でただ手指を動かしたらいいというものではない。


算数。

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  算数は、数えることの意味があり、手指を折り曲げて計算する動作で算数の手話を表している。

 

 なお、サンスウのサン=3 と本を開く手話と組み合わせて、両手の縦の三本指を付き合わせて算数と表現する手話もあった。

 

ろうあ者の中で 手や腕・身体に負担や無理がかかるような手話は駆逐された 京都 学校長 京都の手話

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  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

京都。

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 京都の手話の写真を見て。今の京都の手話とあまりにも違うと思われるだろう。

 

 実は、この写真は現在使われている九の指文字を左右で広げて瞬時に折りたたんで表現しているのである。

 

 写真だけでは、居る、という手話になるが、それはそれで、自分が居る処=京都となっていいのだが、西というもともとの京都の手話表現は、1950年代以前は、九の指文字を左右で広げて=太陽 として それを下に降ろすことで太陽が沈む=西=京都とされていた。

 

 現在の京都の手話のように両手の親指と人差し指を広げて他の指は曲げて、手首をねじって下方で太陽が沈むイメージとしての=西  はされてこなかった。

 

 以下省略するが、先にも述べたが、手や腕・身体に負担や無理がかかるような手話はろうあ者の中で自然と駆逐された。

 

 それは、戦前のろう学校で教えられた手話もろうあ者の中で淘汰されたことも同様である。

 

 このことは非常に大切な意味を持つが、重視されていないことは極めて残念である。

 

 学校長。

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 本を合わせて(開いて)=学校 右手中指を上げて中心の人 そして右手人差し指で指示する これらをまとめて学校長という手話表現である。

 

 左手で本を示したままで学校の意味を残したままの表現である。

 

 指示する、とするが先生という手話表現をとりいれていないところに教育者でないようになった学校長の意味をうかがわせる。

 

丸山浩路 さん 日本のあらゆる手話を受けとけ熟達 NHKテレビ 手話 わいろ 日本最初 手話通訳付きテレビ放映 をはじめた テレビ静岡  わいろ 京都の手話

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  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

 わいろ・賄賂。

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 わいろとは、自分の利益になるようと正当でない目的で金品を贈ることであるが、袖の下、ともされている。

 

 すなわち袖の下の袂もとに隠すようにそっと金を渡す動きがわいろの手話である。

 

 この手話は、かなり以前から全国各地で使われた手話である。

 

 故丸山浩路さんとは、手話や手話通訳をめぐってほぼ意見は一致していたが、1971年5月に行われた第四回全国手話通訳者会議で手話通訳保障をめぐる問題で私とかなり激しいやりとりをした。

 

 そのため手話や手話通訳の方法が彼とよくにていたからであろう彼と私は、ろうあ者からしばしば間違われて呼びかけられ、話しかけられていた。

 

 後に、丸山浩路さんは手話通訳者のギャラを高くしないと手話通訳が認めらられないからそういう主張をした。

 

 私は、そのギャラの意味は解らないでもないが、あなたの生い立ちから考えても貧しいろうあ者から法外なギャラを取ることは理解出来ない、むしろ国や行政が手話通訳者の身分保障をするべきとして要求することが大切ではないか、と何度も話し合ったが話は平行線のママだった。

 

 その後、彼は、1977年、NHKの「聴力障害者の時間」の初代メインキャスターとなるが、彼と再会した時に彼のほうからつかつかと寄ってきた。

 

 そして、NHKのテレビカメラの写り具合から服装がチエックされる。このピンク色のワイシャツを着ているのはそのためだとか服装を変えたことなどを言いつつ、不満げに次のように言った。

 

 丸山浩路さんの、わいろ、の手話はNHKの担当者からだめだと言われる。

 

 袖の下にお金を入れている。それは、わいろを受け取ったということになる。

 

 当時、ロッキード事件が連日報道されていて、わいろを受け取ったかどうかが問題になっている。

 

 この時に、手話でわいろをすると袖の下にお金を入れる=わいろを受け取った、となるので絶対その手話はNHKとして認められない、と言われたとのこと。

 

 そこで手話表現についての意見交換をしたが、結局、丸山浩路さんはお金・袖の近く(袖の下までお金の手話を入れない。注 写真右側のところまで動かさない。)としたとの報告があった。

 

 これは手話の問題ではなく、わいろという言葉そのものの意味合いであるにもかかわらず手話だけを問題にするのはじつに不条理な事であった。

 

 丸山浩路さんもそのように感じたから、私に心の内を吐露したのだと思う。

 

 その後、NHKの「聴力障害者の時間」では丸山浩路さん自身がどんどんと手話表現を変えているのを見て辛かった。

 

 手話や手話通訳のねがいが実現されて喜びはひろがった。

 

 だが、ろうあ者の自由な手話表現に「規制」が加えられ、いい悪い、正しい正しくない、の評価基準も明らかにされず手話や手話通訳に制限が加えられて行った時期を忘れてはならない。

 

 哀しみの下にうち捨てられた手話表現は、甦らせなければならない。

 

 

 わいろ。の手話を思うといつも丸山浩路氏との話が頭によぎる。

 

 彼と論争していてもお互い学ぶものが多かった。誓約された時代の中で、なんとか手話や手話通訳をひろめ社会的認知とコミュニケーション保障をすすめていく。

 

 ことばや表現は違っても、同じ手話通訳者としての熱き想いはじんじんと伝わってきた。

 

 このような経験は、その後少なくなっただけに丸山浩路氏との交流は懐かしさを通りこして人間賛歌で喜び合える気がしてならない。

 

 

 なおテレビ放送に手話通訳を付けたのは、1973年1月28日テレビ静岡が日本最初であった。

 

 当時、手話についてテレビ局としては干渉はしないとディレクターが言っていた。

 

 なお、テレビ静岡が手話通訳を付けた放映をはじめたのは、フジテレビからやって来たディレクターがフジテレビ時代にアメリカに行った。アメリカのテレビでは手話通訳付きの放送をしていたにもかかわらず日本では放映されていない事への疑問と改善提案と強い実施要望があったからだ、とも聞いた。

 

 もっと詳細なことも聞いたが、省略する。

 

鼻高高の意味から 得意 自慢 鼻高々 妙な へん 話の筋が通っていない 京都の手話

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手話を知らない人も

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  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

得意。
自慢。
鼻高々。

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 鼻高高の意味表現からきている得意、自慢の手話。

 

 鼻をへし折る、はこの鼻高高の手話を手でつかんで取り去る手話で表現するが、よく使われているはなしことばを手話で表現しているが、このような手話は多くある。

 

妙な。
へん。
話の筋が通っていない。

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 頭に人差し指を付けて、その指を丸めて開くように放つ手話で「妙な」。

 

  その話は、「妙な」な話だから、注意しないといけないよ。

 

 などの場合によく使われた手話。

 

 考えがあるようで、それが投げ捨てられている通常な考えではないから‥‥‥でないという意味を受けて表現している。

 

古い習慣や技巧などを頑なに守らない 伝統 手話 発想を変えていく 趣味 反省 京都の手話

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  伝統。

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 この伝統の手話は別の項で紹介したが、今回は、二つの伝統の手話が紹介する。

 

 下段の手話伝統は、男女の手話を上から下に回しながら表現する。

 

  人から人へと伝えられてきたことを伝統としているのだが、上段の伝統の手話は少し違う意味合いが籠められた伝統という手話である。

 

  頭に人差し指を付けて=考え 次は右手と左手の手のひらを交差させながら、変化、替わるを表現する伝統という手話。

 

  上段の伝統の手話は、伝統とは古い習慣や技巧などを頑なに守るのではなく、次々と考え・発想 を変えていくことが伝統であるという意味を持たせている。

 

  京都の伝統文化を熟知しているからこそこのような手話表現が出来るのだろう。

 

  京都の伝統文化で何百年続いたという店があるが、その品物は時代とともに新たなる創作が加えられていることを知った上での伝統の手話。

 

 明石欣造さんたちの手話は「古い」と断定されて揶揄された1980年代以降、明石欣造さんは自分たちの手話が唯一絶対ではないが、私たちが創りあげてきた手話の伝統を引き継いで欲しいとさかんに言っていた。

 

 伝統とは、古いものを固持するだけではない、時代とともに新たなる創作が加えられていくものだと「古くから」手話表現していた。


趣味。

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 趣味とは、上段の物事の「味わい」という手話を下段の「胸に仕舞い込む」という手話表現で趣味の手話。

 

 漢字の意味合いを捉えた手話とも言える。

 

反省。

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 反省は、自分の行いをかえりみること、意味から誰もがする頭を下げる動作を手話で表している。

 

 手のひらで頭を下げる半円状の動きをして、心に留めると言う意味で腹に手のひらを付ける。

 

 心からの反省を表した手話。

 

歴史 流れ 鎧袖の重なりもダブらせて視覚的イメージで 歴史 流れ 経過 漢字 活字 ひらがな 京都の手話

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手話を知らない人も

              手話を学んでいる人もともに
  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

歴史。
流れ。
経過。

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  歴史ということばは、明治時代にhistoryの訳語としてつくられた漢字。

 

それまでは、「史」が主に使われた。

 

 このように明治時代に「造語」と言っていいことばが量産された。

 

 ろうあ者はその歴史の意味合である「歴史的探求の積み重ねから得られた知恵」の「積み重ねから」を巧みに表現した。

 

 肩から手までに手のひらを少しずつ凹凸を付けるような動きをして「積み重ね」を表現したが、同時に武士達の鎧袖の重なりもダブらせて視覚的イメージを表した手話。

 

 従って、「流れ」「経過」などでもこの手話が使われた。

 

 積み重なって、流れてきた歴史。そこには、過去の蓄積が形成されている、との想いも籠められているようである。

 

 流れも、手のひらを拡げ腕を上から下へと動かす動きを少し変えることによって、スムーズな流れなのか、瀬を形成しながらの流れなのか、多様に表現される。

 
  漢字。
 活字。

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 次のひらがなの手話と比べてみるとよく解る。

 

 漢字は、手指を曲げて四角い、としてそれを下方に順番に置くしぐさで漢字の手話。

 

  金属の字型の活字をも表現している。

 

  活版印刷の工程で、原稿に従って活字棚から活字を順に拾い、文選箱に納める文選工は、ろうあ者の憧れの仕事であった。

 

 ごく一部であるが、ろうあ者で文選工に就いた人がいた。

 

 漢字は枠の中でひと文字一文字現されるが、ひらがなは一筆で続けて書かれるところから区分されて手話表現されてきたのであろう。

 もっと深い意味があるのかもしてない。

 

ひらがな。

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 漢字に対してひらがなの手話は、手のひらを紙に、人差し指を筆にたとえて、すらすらと書く動きでひらがなの手話としている。

 

 人差し指の動きで、ひらがなが連なって書かれることを現す。

 

 ひらがな、漢字。文字に秘めた多くの意味合いをろうあ者学んできたが所以にその動きのひとつひとつに想いを籠めている。

 

 簡単なようで、なかなか手話として表現出来ないものである。その時代や歴史に思いを馳せて、全身で手話を現す。

 

 これらの手話を体得している人は、現在では少なく、少ないが故に消し去ろうとする動きは、手話の必要性を説きながら、手話そのものを否定することになる。

 

 手話は、それほど多くの意味合いを充分に含むが故に「多様に変幻」できるのである。

 

 ひとつの手話は、ひとつの意味を表現するという単純な論法は、手話の本質的な意味合いばかりか、手話を相互理解の中で育ててきたろうあ者に対する「侮辱」であると言ってもいいだろう。