手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

自分のことを ろうあ者 全体の問題として言う傾向はよくあったこととして考えないと

 f:id:sakukorox:20180112215012j:plain

手話を知らない人も

                 手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

あらためてCさんから
学んだこと
自分のことから
全体の人の問題としてとらえる行動

 

  なんでもかんでも聞こえないからと言って聞こえない人は、ろうあ者は、と言っている人は、結局、ろうあ者の「衣」を被って自分のことだけを言っているし、ろうあ者問題の理解者と言われている人もしょせんは、ろうあ者問題を「利用」して自分の存在をアピールしているだけなんや。

 

 俺もそんなことをしてきた。

 

と言って反省を述べたCさんは、それから教職員の労働条件や不公正な問題などに積極的に参加し、京都府教委との交渉にも参加して発言するようになった。

 

 Cさんの教員採用については、ろう学校の一部の教師からさまざまな「悪口」が陰で話されていたが、Cさんはそのようなことを頓着しなくなっていた。

 

 全国的に聞こえない教師として当時から知れ渡っていた教師に対してCさんは、他のの教職員の問題に一緒に取り組むように呼びかけていたが見向きもされなかった。

 

 自分のことを全体の人の問題として言う傾向は、よくあったこととして捉えないといけないと改めてCさんから学んだ。

 

すべてのろうあ者は
手話が分かると「断定」する傾向に

 

 最近ろうあ者の人は、手話が必要という人の中にすべてのろうあ者の人は手話が分かり、通じるかのような考え。

 

 手話や筆談などの他のコミュニケーション手段を用いることはろうあ者の手話の必要を認めてないことであり、ろうあ者問題を理解していないことの現れと「断定」する主張が見聞きする度にCさんのいった事を想い出す。

 

京都府政の流れが変わったので
要求はすべて受け入れないで
    敵視することが基本だったが

 

 Cさんが教師として採用されて十数年後、採用問題で京都府教委の担当者だった人と偶然道で出会った。

 

 その人は、かけよって来て、定年で府教委をやめたけれど今でもCさんの採用問題について心残りのことと君たちへの感謝で一杯だと言った。

 

 京都の知事が変わり、京都府政の流れが変わったので、教職員組合の言うことなど要求はすべて受け入れないで敵視することが行政担当者の基本だったが、と話しはじめた。

 

なんでもかんでも ろうあ者 は、と言っている人は ろうあ者 の「衣」を被って

f:id:sakukorox:20180110201709j:plain

手話を知らない人も

                   手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

   Cさんの教員採用試験不合格問題の第三回目の京都府教委との交渉。

 

 Cさんを一番理解し、聞こえない教師の不採用という問題に「激高」していいはずのろう学校の教師の参加はなかった。

 

 でも、Cさんは「孤独感」を抱くことなく交渉に参加していた多くの教職員と親しくなり、お互いに励まし合う関係が出来ていた。仲間と連帯の輪が想像を超えて広がっていたからである。

 

  三度目の教員採用試験

     Cさんはろう学校の教師に

 

 結果的に京都府教委は、Cさんが二度にわたって受けた教員採用試験で面接まですすみ、不合格になった理由を明かさないまま、教員採用試験は厳正に実施する、と言うことだけ言って後は黙りを決め込んだ。

 

 採用試験を遡って考える、ことは絶体考えられない事だった。

 

 第二回の交渉からCさんもそのことを理解していたのだろう、三度目の教員採用試験を受けることになった。

 

 採用試験は、すべて合格。Cさんは、ろう学校の教師になりたいと希望してそれが実現した。

 

  遙か昔のろうあセンター時代の
旅費をめぐって謝ったCさんの胸の内

 

 そのことは知っていたが、用事があってろう学校に行った時に満面の笑みでCさんは、ありがとう、ありがとう、と言いつつ、あの時は悪いことをした、自分の中に僻みがあった、と言ってきた。

 

 てっきり、府教委との交渉の件だと思い、そんなことは気にしなくてもいいよ、と言ったが違った。

 

 アヤベとソノベを聞き違えてタクシーに乗ったろうあセンター時代の旅費の事だった。

 

 ろうあセンター時代のろうあ協会の会計担当だったCさんが言ったことの詫びだった。

 

 遙か昔のこととして済んでいたと思っていたが、Cさんは自分が言ったことをずっーと心に仕舞い込んでいたが、府教委交渉に参加する中で謝らないといけないと思い続けていたと吐露した。

 

なんでもかんでもろうあ者は、

  と言っている人は
ろうあ者の「衣」を被って
   自分のことだけを言っている

 

 許してや、そんなん気にすることはないよ、教師になれて良かったなぁ、という話で終わった。

 

 が、Cさんは、なんでもかんでも聞こえないからと言って聞こえない人は、ろうあ者は、と言っている人は、結局、ろうあ者の「衣」を被って自分のことだけを言っているし、ろうあ者問題の理解者と言われている人もしょせんは、ろうあ者問題を「利用」して自分の存在をアピールしているだけなんや。

 

 俺もそんなことをしてきた。

 

 そのことに気がついた。

 

 これからは、絶対そんなことはしない、と言い切った。

 

 ろうあセンター時代の旅費の問題、Cさんの教員採用問題は、それでひとつのエピーソードとして記憶に残った。

 

 だが、数年後にさらに知らなかったことが聞かされることになる。

 

Cさんを一番応援するはずの ろう教師 や 手話 や 手話通訳 に熱心だと言われている教師の参加はなかったが

f:id:sakukorox:20180108200423j:plain

手話を知らない人も

      手話を学んでいる人もともに

{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

  ろうあ協会の役員をしていた Cさんが二度にわたって受けた教員採用試験で面接まですすみ、不合格になった件での第二回目の府教委との交渉がはじまった。

 

 Cさんは、もうあきらめた状況だったが、それでもうつむいて交渉に参加した。
 
 二度目もCさんを一番応援するはずのろう教師や手話や手話通訳やろうあ者問題に精通していると理解されている教師の参加はなかった。

 

Cさんの採用問題だけでなく
みんなの問題でもある
ぜひこのことは交渉で言って欲しい

 

 京都府教委は、

 

「教員採用試験の面接等は今後の検討課題とさせていただきたい。」

 

と冒頭からの回答があった。

 

 だが、交渉参加者の教職員から教員採用試験と採用をめぐる疑問や問題が矢継ぎ早に出された。

 

 第一回の交渉のあと各学校で交渉の様子を話したところ、次から次へと教員採用試験の問題が教職員から出されてCさんの採用問題だけでなくみんなの問題でもある、ぜひこのことは交渉で言って欲しい、と依頼されて参加した教職員が多かったからだ。

 

 京都府下は、広い。京都旧京都正庁の会議室にやってくるには、日帰り出来ない地域もあった。

 

 また、府教委が教職員が参加出来なくなるようにしていた。

 

正面を見据えるようになっていたCさん

 

 教員採用試験の問題や疑問が矢継ぎ早に出されたなかで、うつむいてばかり居たCさんの顔が正面を見据えるようになっていた。

 

 採用通知が来て、府教委が指定した診療所の診断を受けるように言われて真面目に受診した人が採用されなかったなどの件。

 

 府教委は、採用前検診で異常があるから採用されなかったのだろう、とまるで人ごとのように言う。

 

 すると交渉の場で、本人が診療所でもらってきた診断書を読み上げた。

 

 教師としての労働が出来ないという診断状況ではなかった。

 

 恣意的な判断で教員採用をしているのではないか、と交渉に参加した人の怒りがピークに達した時のことだった、

 

 府教委の担当者がポロリと採用されないいくつかの項目があり、それに掛かると不採用になると言った。

 

最初から不合格になることを
知らないで受験している人を
なんと思っているのか!!

 

 「それならその項目をなぜ、教員採用試験の募集要項に明記しないのだ。」

 

 「募集要項に明記されず、府教委の内々の項目で不合格にされるということは教員採用試験を受ける人を騙していることにもなる。」

 

  「ペテンを府教委がしてもいいのか!!」

 

 「最初から不合格になることを知らないで受験している人をなんと思っているのか!!」

 

 交渉は、大荒れになり、怒りの声が渦巻いた。

 

 あとは、府教委は何も言っても黙るだけだっいた。

 

 黙って時間を引き延ばし、交渉を終える計画だった。

 

 交渉は、第三回目を約束して終わらざるを得なかった。

 

 力のあるものがその力でねじ伏せようとする様子が見え見えだった。

 

もっと多くの人も

  苦しんでいたことを知った
応援する教職員がこんなにも
あたたかい気持ちで

  考えてくれているなんて‥‥‥

 

 第二回の交渉が終わって会場を整理していた時に、Cさんに話しかけた。

 

 「簡単にいかんわなぁー」

 

と言うと、Cさんは笑顔で

 

「よかった、よかった。」

 

「自分だけではなく、もっと多くの人も苦しんでいたことを知ったし、それを応援する教職員がこんなにもあたたかい気持ちで考えてくれているなんて‥‥‥」

 

とうるうるしていた。

 

三度目の教員採用試験は絶対受ける

 

 そして、

 

 「三度目の教員採用試験は絶対受ける」

 

と言い切った。

 

 

ろうあ協会の Cさん 二度の教員採用試験で不合格への京都府教委交渉

f:id:sakukorox:20180108194000j:plain

手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに

{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

  過去の問題では決してない
  教育委員会や行政の責任が数多く「隠蔽」

 

 ろうあ協会の役員をしていた Cさんが二度にわたって受けた教員採用試験で面接まですすみ、不合格になった件は、教員採用試験ばかりか、教員免許を取得しているにも関わらず教員として否定するものであった。

 

 このことは過去の問題では決してない。現在各地で問題にされている教師の不適格問題の背景には教育委員会や行政の責任が数多く「隠蔽」されているように思えてならない。

 

 今日ほど障害者問題が社会的に取り上げらなかった時代。Cさんが二度にわたって受けた教員採用試験で面接まですすみ、不合格になった問題はCさんのみならず教師や教育の根幹に関わる重大な問題を含んでいた。

 

 この頃、大阪では障害者の教員採用をめぐる先駆的取り組みがなされていた。

 

  交渉に参加して欲しい
と話したが難色を示して黙り込んで

 

 私たちは、京都府教委の教員採用試験制度を徹底的に調べるとともに公表された資料を基に可能な分析を行って京都府教委に教員採用をめぐる交渉を申し入れた。

 

 京都府教委との交渉の日程が決まった段階で、Cさんと会い、交渉に参加して欲しい、と話したが難色を示して黙り込んでいた。

 

 京都府ろう学校の同僚やろう教師として日頃、各地で講演したり、手話や手話通訳やろうあ者問題に精通していると理解されている教師にも交渉への参加を申し入れた。

 

 京都府教委との交渉の当日。

 

 Cさんは、旧京都正庁の会議室での交渉に参加していた。が、ろう学校の教師の参加は少なく、ろう教師や手話や手話通訳やろうあ者問題に精通していると理解されている教師の参加はなかった。

 

あなたたちは教員の採用に
ついてまで干渉するのか

 

  Cさんが二度にわたって受けた教員採用試験で面接まですすみ、不合格になった件で京都府教委に話しはじめると、すぐ、

 

「教員採用の問題は人事に関わる問題なので話をすることは出来ない。」

 

「あなたたちは教員の採用についてまで干渉するのか。人事決定権は府教委にある。」

 

と威圧してきた。

 

 交渉のテーブルの前列に居た私は、会議室の後方に居るCさんを見た。Cさんは、顔を俯けたままだった。

 

  二度にわたって面接まで採用試験がすすみ
不合格になったのはCさんだけ

 

 「教員採用について干渉することで話をしているのではない。二度にわたって面接まで採用試験がすすみ不合格になったのはCさんだけではないか、他に人たちは、面接まですすみ一度の試採用試験で採用されている。これらの事実は私たちが調べたので明白である。面接でCさんは不合格になったとしか考えられない。そうではないか。」

 

京都府教委に詰め寄った。

 

 するととんでもない回答がなされた。

 

Cさんが採用されても
合格者として

名簿登載されるだけにすぎない

 

「たとえCさんが採用されて通知が行ったとしても、それは教員採用合格者として名簿登載されるだけにすぎない。教員採用試験合格即採用という意味ではない。」

 

 「あなたたちの言うCさんの採用試験時には、たとえCさんが採用試験に合格していても専科教科なので、国語や英語のように採用枠が広いというわけではなかったはずだ。」

 

とまで京都府教委担当者が言い出した。

 

 そこで、

 

「専科教科の枠は少ないが、Cさんが教員採用試験を受けた年度には、新採として教員配置したと4月1日付けの新聞発表で公表しているではないか。」

 

「専科教科なので、国語や英語のように採用枠がないと言うのは事実に反する」と京都府教委に反論した。

 

府教委のメンバーの顔色がみるみる変わり

 

 列席していた府教委のメンバーの顔色がみるみる変わり、こそここそと担当者同士で耳打ちして

 

「今日はここまでで終わりにして欲しい」

 

と言い出した。

 

 京都府教委に検討させるために交渉は中断して、二回目の交渉を約束した。

 

 

教員採用試験一次、二次、そして面接まですすんできたのに2度も不合格

f:id:sakukorox:20180107212533j:plain

 手話を知らない人も

            手話を学んでいる人もともに

 

{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

  月日が流れて私は教師になり。教職員組合の役員を一時期していた時のことである。

 

  ある日、ろう学校のCさんが教員採用試験一次、二次、そして面接まですすんできたのに2度も不合格になっている。

 

 今度は三度目の採用試験になっているが、本人は希望を失っているという話が私のところに舞い込んできた。

 

 教員採用試験不合格本人も疑問を持ち
  ろうあ者差別で不採用になった

              と言われていたが

 

 早速、Cさんに会った。

 

 Cさんは小企業で働き、夜は高校の夜間定時制に通い、通信教育で美大を卒業して教員免許を取得していた。そして、京都府立ろう学校の実習助手をしながら、教員採用試験を受けていたのだった。

 

 二度にわたる教員採用試験の不合格。本人も疑問を持ち、ろう学校でいわゆるろう教師と言われる人々がさかんに、ろうあ者差別で不採用になった、と言い、他の先生も同調していたと言う。

 

  君に相談しただけでも
もう採用は不可能になる

 

 教職員組合の役員をしていた私は、そのようなことをナゼ知らせてくれなかったのか、と聞いた。

 

 するとCさんは、教職員組合と府教委はかっての京都府政や府教委の時代ではなくなった。

 

 教職員組合と府教委は「対立関係」にあり、特に今はひどい状況である。そんな時に、君に相談しただけでももう採用は不可能になると思うし、みんなもそう言うので黙っていたと言う。

 

 Cさんの言うことは、分からないことはないが、教職員組合は教職員の要求を取り上げて、その実現のために奮闘している。

 

 また教職員の要求だけではなく広く教育問題も取り上げているのであって、府教委と対立するために行動しているわけではないのは充分承知しているのでは、と話した。

 

 Cさんは、それはわかるがそれでも採用してもらうためには、君と知り合いであることは隠しておかないといけないと思うし、ろう学校の教師の多くも同じように言う、と話してきた。

 

  正当で公正ならば

必ずCさんの採用は実現する、と

 

 そこで、ろうあ協会と共に行政と交渉をした苦労や「水をかけられたような惨い仕打ち」を共にしてきたことを話し合い、正当で公正ならば必ずCさんの採用は実現する、と話した。

 

 同時に、Cさんが二度にわたって受けた教員採用試験で面接まですすみ、不合格になったのはあなただけで、それも二回という例はないことを調べてきたことを告げた。

 

  Cさんは、考えると言って、共に行動しようとは言ってくれなかった。

 

 

間違うことがダメ 手話通訳者としては失格

f:id:sakukorox:20180107202604j:plain

 手話を知らない人も

    手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 京都ろうあセンターから国鉄(現在のJR)で綾部まで行くと、時間だけでなく交通費も多くかかった。が、園部大橋と綾部大橋のバス案内を聞き違えたのは、聞こえる手話通訳者の責任である。

 

 当時ろうあ協会の会計担当だったCさんがカンカンになって怒って高圧的に二人を叱った。

 

  聞こえているのに何をしていたのだ

  聞き間違えるほうが悪いのだ 自腹で払え

 

 間違うことがダメで、ろうあ者の手話通訳者としては失格である。

 

 聞こえているのに何をしていたのだ。

 

 聞き違えたからタクシーで追いかけた?それでタクシー代を支払え?

 

 そんなものでろうあセンタ-からタクシー代は出せるもんか。

 

 「聞き間違えたのは理由にならん。」

 

 「聞き間違えるほうが悪いのだ。自腹で払え……」
 
 タクシー代は千円にも満たない少額だった。だが2万円も満たない薄給だった二人にとってとてもイタイ自腹になる。

 

  僕が聞こえていたら
 やはり同じことになっていた

 

 そこで、大矢さんは、

 

「もしも僕が聞こえていたら、やはり同じことになっていただろう。一人の場合は、行き過ぎたら困ると思って眠れないが、聞こえる手話通訳者が居たから安心して眠り込んだんだ。」

 

「タクシー代は認めてほしい」

 

と言った。

 

 しかし、ろうあ協会の会計担当のCさん、

 

「まちがう二人が悪い」

 

と言いつづけた。

 

  わかり合える経済状況
でないがゆえんに理解ではなく

 

 そのため、「その話はそうかもしれないが……」と二人で言いつつ、神経を張り詰めて綾部で深夜までろうあ者の相談にのり、働いてきた状況も理解してほしいと言い続けた。

 

 ろうあ協会としては厳しい台所状況を抱え、相談員も手話通訳者も薄給の中での矛盾が「激突」した。

 

 ろうあ協会の会計担当のCさんも小企業で働きつつ低賃金で大学の通信教育を受けて学んでいた。

 

 お互い苦しい生活をしていたから、わかり合える経済状況でないがゆえんに理解ではなく感情的対立が増幅した。

 

 Cさんからしたらそんな甘いこと自分の職場では認められるか、と言う気持ちもあった。

 

 憎しみがの頃ながらも、他の人の取りなしで結果的にタクシー代は認められることとなった。

 

 物理的・精神的疲労の積み重なりの上での「聞き違い」。コミニケーション問題で大きな課題に取り組んでいたろうあ協会だから、今回のような「聞き違い」は理解してもらえるだろう、とタクシーの中で話したことが逆であったことに大矢さんも私も落胆した。

 

  夢だに思わなかった
 Cさんからの謝り

 

 このことがあってCさんへの腹立ちはおさまらなかったが、その後、Cさんが謝ってくるとは夢だに思わなかった。

 

 多くの月日が経ってCさんの人生にとって重大な問題が生じた。

 

 その時、私はろうあセンターの職員ではなく、教師として教育の仕事に就いていた。

 

~ ベオオハシと聞き違えた顛末と哀しみ

f:id:sakukorox:20171226210707j:plain

手話を知らない人も

                手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

  1969年当時は、京都ろうあセンターから京都府下に行くのは非常に時間がかかった。

 

 国鉄(当時)より京都バスの方が安いのでろうあ者相談員の大矢さんと一緒に綾部(あやべ)に行くことになった。

 

 市電を乗り継いで、西大路七条で綾部まで行くバスに乗った時、大矢さんも私も前日の仕事で疲れ切っていた。

 

  聞こえる自分が寝込んで
しまったら大変だと思いつつも

 

 早朝の舞鶴まいづる)行き一番バス。バスに乗ったときには、二人ともうつらうつらしていた。大矢さんはすぐ私が居るので綾部大橋に着いたらバスの案内があるから分かるだろうと爆睡してしまった。

 

 私は、

 

「大矢さんは聞こえないし、ここで二人とも寝込んでしまったら舞鶴まで行ってしまったら大変だ。綾部大橋で降りないと。」

 

と心を引き締めたが睡魔に勝てずぐっすり寝込んでしまった。

 

  突然「次は……べ大橋……」
        慌ててバスを降りたが

 

 突然「次は……べ大橋……」というバスのアナウンスを聞いて、びっくりして目が覚めた。

 

 次から次へと人が降りている。私は慌てて大矢さんを起こして、バスを降りた。

 

 二人とも頭の中は昏睡状態だったが、急いで降りて周りをよく見ると「アヤベ大橋」ではなかった。

 

 川はあるものの由良川の大きな流れもない。何となく歩いた二人だが、ここはアヤベでないぞと解りあわててバス停に引き返した。

 

 バス停には「そのべ(園部)大橋」と書いてある。

 

 二人ともびっくり。

 

 「綾部大橋」と「園部大橋」を私が聞き違えたために降りてしまったのだ。

 

 バス会社の人に聞くと次のバスが来るのは2時間後。

 

 とうてい約束の時間に間に合わない。

 

ソノベ大橋とアヤベ大橋と
     よく聞き違える人があるよ

 

 「どうしよう、困った」と戸惑い相談して悩む二人を見たバス会社の人が、

 

「この先は峠が多いのでバスはゆっくりしか走れない。タクシーならすぐ追いついて乗れるよ。」

 

「切符は綾部大橋まで買っているのだから大丈夫。」

 

「ソノベ大橋とアヤベ大橋とよく聞き違える人があるよ。ソノベ大橋は、アヤベ大橋よりはるかに小さいけれど……」

 

と言ってタクシー会社の場所を教えてくれた。

 

  後日その旅費の支給を
           めぐってトラブルに

 

 大矢さんと私はタクシーに乗り込んだ。

 

 タクシーはぐんぐんスピードをあげ、すぐ観音峠の手前でバスに追いついた。でも追い越し禁止地帯。

 

 峠を越えたところで、バスが止まってくれ難なくバスに乗ることが出来た。

 

 ホッとしたものの「アヤベ大橋」まで二人は寝ることは出来なかったのはいうまでもない。

 

 アヤベで仕事を終え、深夜の帰宅。後日その旅費の支給をめぐってトラブルになった。