手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

アスペルガー 研究が生かされている日本の現実 忘れるなかれ「優生保護」などの不当と闘ったろうあ協会の歴史

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 手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
 
ナチス・ドイツ

安楽死プログラムに積極的に協力した
   小児科医のハンス・アスペルガー

 

 アスペルガー症候群の研究で知られるオーストリア人小児科医のハンス・アスペルガーが、ナチス・ドイツ安楽死プログラムに積極的に協力していたことが明らかになっている。

 

 アスペルガー医師による「遺伝的価値」と「民族的純粋さ」に欠けるとされた多くの子どもたちが殺されたとされている。

 

 だが、それらの事実が隠蔽されきた。

 

  このことは、アスペルガー医師だけでなく世界中で戦争という「異常事態」を理由に医学や科学の名の下に多くの人々を生きた実験者にし、殺戮した人々が戦争終結後もその「研究成果」を活かしてきた、そしてそれが「認められ」てきたことはいうまでもないことだろう。

 

 だが、それだからと言ってそれを追認し、その行為や行動や「研究成果」を許してはならない。

 

アスペルガー症候との名称は
 アスペルガーの功績を
  認め称賛するとして反対されているが

 

アスペルガー医師が死んで以降の1980年その業績が認められ、その名にちなんでアスペルガー症候群との名称がつけられた。

 

 欧米では少なくない人々が、小児学および児童精神医学に長きにわたって価値ある貢献をしてきたとされるアスペルガー医師が、ナチス優生学安楽死政策を積極的に支援していた罪が覆い隠されているとして、アスペルガー症候群との名称を疾患や障害に人の名をつけるのは、アスペルガー医師の功績を認め称賛するとして反対されて来た。それは当然のことだろう。

 

日本の子どもと教育に

  「発達障害」が導入され
    アスぺルガ一に対する

  理解不足を主張する「研究者」

 

 だが日本では、1980年以降まで欧米では彼の実績がほとんど知られていなかったとして、日本の子どもと教育に「発達障害」ということばがさかんに使われ、発達障害のなかでもアスぺルガ一症候群を最も重視して、アスぺルガ一に対する理解の不足が日本の教育の大きな問題だとする研究者が立ち現れている。

 

 またそのことに同調して、アスぺルガ一に対する理解の不足を声高に強調する研究者・教育関係者が増えてきている。

 

多くの人々を殺戮し断種した「優生学
それに伴う不妊手術などなども

   肯定する考えの復活か

 

 「悪魔の研究」とされた研究実績を、実績は実績と評価する人々は、多くの人々を殺戮し、断種した「優生学」やそれに伴う不妊手術などなども肯定する考えでもあると言えるのではないだろうか。

 

 戦争が数え切れない人々を虐殺された過去は、今だ払拭されていない。

 

お母さんが悪かった!!許して!!の絶叫 忘れるなかれ「優生保護」などの不当と闘ったろうあ協会の歴史

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手話を知らない人も

                  手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

  ものごころがつかないうちに不妊手術がされていた、盲腸の手術といって病院に連れて行かれたのが、不妊手術だった。

 

お母さんが悪かった!!

             許して!!の絶叫から 

 

  お父さんやお母さんは、私を騙した。

 

 荒れる怒りの中で両親もろうあ者も涙をとめることが出来なかった。

 

 お母さんが悪かった!!許して!!

 

 絶叫は多くのろうあ者の家庭で広がった。

 

 だが、このことは単にあるろうあ者の個人的なことではないことが1969年の京都ろうあセンター設立によって点から面の問題であり、その根底には、障害者への蔑視、不要論だけではなく人間に優劣を貼り付けていたことから来ることがみんなが学習する中で解りかけてきた。

 

断種と軍備強化の歴史に
  だが待てよ、でも、とろうあ協会

 

 人間に優劣をつけて、優遇するものと、うち捨てるものをつくる思想。

 

 「優生学」が戦争と結びついて極端に歪められ、断種することが当然のこととされてきた歴史。

 

 そして、それが、国家財政や行政財政の負担をなくし、その費用が軍備にまわされたことも知ることになった。

 

 ろうあ協会ではそれに対する理解の程度のあはああっても、優生保護と不妊手術の基底にある問題は敏感に捉えることが出来るようになっていた。

 

  だから、「障害者福祉の対策は、障害者が産まれないよう、にするのが基本である」と言い切る京都府幹部の話が出された時、多くのろうあ者がその背景にある考えに爆発した憤りをしめした。

 

 が、だが待てよ、でも、とろうあ協会の中で激しい議論がなされた。

 

 1969年のろうあ協会の話し合いは現在から見ても、怒りが先走るのを押さえて人間性を求めたとても大切な話し合いだったと思う。

 

過去の歴史でない
優生保護法による不妊手術(断種手術)

 

 優生保護法による不妊手術(断種手術)は、手術された当事者や家族や親類だけの問題とされ、それを近しい人々の争いごとだったとされて過去の歴史が容認されて来たように思う人もいる。

 

 だが、これらの事は過去のことではない。

 

 そこで近年の一例を挙げておきたい。

 

 

優生保護=卵管・精管を切る 優生保護法による不妊手術の手話 実体験の手話を消してはならない 忘れるなかれ「優生保護」などの不当と闘ったろうあ協会の歴史

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 手話を知らない人も

                     手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

「ろうあ」は遺伝する。

「先天性ろうあ」ならなおさらだ。

 次第に聞こえなくなる場合も遺伝する。

 知的障害などを併せ持つ人も遺伝する。

 

 いや、障害者全体に対して「劣性遺伝」があるかのように戦後も続き、どれだけ多くの障害者が傷つき非人間的扱いを受けたか今では計り知れないだろう。

 

好きになり結婚したい

気持ちは消すことが出来ない

 

  お互いが好きになり、結婚したいという気持ちは消すことが出来なかった。
 
 結婚相手が、聞こえる人がいいのか、ろうあ者同士がいいのか、真剣に話し合われていた。


 この現実に具体的解決を迫ったのは、結婚に反対する両親や親類や多くの人々や一部のろう学校の教師たちだった。

 

 両性の合意のみに基いて成立、を盾に

 

 日本国憲法 
第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

を学んだろうあ者たちは、自分たちの結婚が憲法で保障されていることを知り、

  婚姻は、両性の合意のみに基いて成立、することを盾に結婚の実現のためにみんなが協力し、結婚に反対する両親や親類や多くの人々や一部のろう学校の教師たちを説得し続けた。

 

 この取り組みの中心はろうあ協会であった。さらに手話通訳保障はその取り組みを加速させた。

 

やっと結婚出来て喜びに包まれていたが

 

 ろうあ者の身近な人々の偏見、予断、罵詈雑言はほとんどだったが、海辺に打ち寄せる波のようにろうあ協会は、理解と説得を続けた。

 

 そしてやっと結婚出来て喜びに包まれていた。が、1年、2年、3年、4年‥‥‥と経っても子どもが産まれない。

 

 手話通訳を伴って産婦人科を訪れ、不妊治療がなされていることを知った時、すべての怒りは、結婚に反対する両親や親類や多くの人々や一部のろう学校の教師たちに向けられた。

 

 

人間無視の 優生保護 を打ち砕く保育所入所 忘れるなかれ「優生保護」などの不当さと闘ったろうあ協会の歴史

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手話を知らない人も

                   手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 子どもが産まれたどのように育てるのか、赤ちゃんが泣いても解らないではないか、育てる知識も能力もないではないか、産まれる子どもたちがかわいそうだ、などなどあらゆることが列挙されてろうあ者に突きつけられていたそれへの解答は、保育所入所ということだった。

 

 今ならこの当たり前のことが、理解されなかった。人々にも行政にも。

 

ろうあ者だけを「優先」

       させることは出来ない
自分たちだけを優先して、と

     言っているのではない

 

 保育所入所待ちの人々が多い中、行政はろうあ者だけを「優先」させることは出来ないと話も聞かないで断った。

 

 ろうあ者やろうあ協会は、自分たちだけを優先して、と言っているのではないと保育所作りの運動をしている人々の輪に入り、保育所設置運動をしていた。

 

 自分たちさえよければいい、のではなく、みんなも保育所には入れるようにと「多くの人々の要求とろうあ者の要求」をひとつにして、ろうあ者がなぜ保育所入所をねがうのかも訴えた。

 

独りよがりや身勝手さをなくして

 

 優先、ではなくみんんあのねがいを実現する。

 

 その中でろうあ者が言われている「 子どもが産まれたどのように育てるのか、赤ちゃんが泣いても解らないではないか、育てる知識も能力もないではないか、産まれる子どもたちがかわいそうだ、などなどあらゆることが列挙されて」いる苦悩を多くの人々に知らせていった。

 

 独りよがりや身勝手さをなくして、事実の問題解決を望んだことは、とてもとても大切だった。

 

 今はどうだろう。口話の大切さを主張する人へ手話を学んでいる人は理解を求めるとか、お互いが理解して一致を見いだすのではなく、敵対的になったり、感情をむき出しにしていないだろうか。

 

児童の保育に欠けるところがある

 

 ろうあ者は学び続けた。

 

 児童福祉法の「市町村は、保護者の労働又は疾病その他の政令で定める基準に従い条例で定める事由により、その監護すべき乳児、幼児又は第39条第2項に規定する児童の保育に欠けるところがある場合において、保護者から申込みがあつたときは、それらの児童を保育所において保育しなければならない。ただし、付近に保育所がない等やむを得ない事由があるときは、その他の適切な保護をしなければならない。」

 

を学んだ。そして、自分たちは、「児童の保育に欠けるところがある」と主張した。

 

 「児童の保育に欠けるところがある」からこそ「保護者から申込みむ、そして子どもたちを保育所において保育してほしい」ということである。

 

本来ないなら、あるように
ということまでろうあ協会は理解して

 

  「欠ける」ということばに手話を学ぶ少なくない人々は感情的怒りを示すかもしれない。

 

 だが、手話を言語というならことばに意味も充分知っておいてほしいものである。

 

 欠けるとは、あるべきものがない、という意味もあり、本来、児童福祉の精神から考えて「本来ないなら、あるように」ということまでろうあ協会は理解して行政に迫った。

 

 このことがあったからろうあ者の子どもは、保育所に入所出来るようになったがその取り組みと保育所の人々の熱心な取り組みは書き切れないほどある。

 

  聞こえない親の子どもを育てることは不可能と言うことへの解答のひとつは、保育所入所であり、保育所入所は子どもたちを育てる環境を大きく変えた。

 

 それは、劣性、劣性遺伝と決めつけ人間無視の優生保護を打ち砕く大きなひとつでもあった。

 

 

ベビーシグナルを交付の歩みは‥‥‥忘れるなかれ「優生保護」などの不当さと闘ったろうあ協会の歴史

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手話を知らない人も

                   手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

  当時のろうあ者が次の世代やろうあ者だけのことではなく障害者全体のこと、全体のことをを考えもがき苦しんでいたのか。
  そして文字は、自分たちの気持ちや要求を表現するのだと言ったことを知ったろうあ者の読み書きの獲得の時間。
 さらに連日深夜の論議を経たビラの作成。この論議には、書き切れない多くのことがある。

 

先天性ろうあ
ろうあは遺伝するもの多くの人は思い込み
ろうあ者自身もそう思い込んで

 

 先天性ろうあ、身体障害者手帳に大きく書かれた障害名。

 

 先天性ろうあは遺伝するものと多くの人は思い込み、ろうあ者自身もそう思い込んでいる人も少なくなかった。

 

 耳鼻科医を呼んで学習した時に、心ある耳鼻科医は先天性とは生まれつきという意味で遺伝性の聴覚障害ではないと説明しつつもその名称が「適切」であるとは思えない、とも言った。

 

 身体障害者交付の条件には、さまざまな制約や条件が課せられていたこともあり身体障害者手帳を交付されない限りいくつかの福祉制度が受けられない。

 

 だが、この身体障害の規定は障害年金労働災害補償の年金の規定とも異なっていた。

 

国や各都道府県・政令指定都市
   多くの誤解を生みだしていた

 

 そんな中、先天性ろうということばは多くの誤解を生みだしていた。

 

 ここで記録しておかなければならないのは、身体障害者手帳は、交付申請を受けて各都道府県・政令指定都市の審査(専門医も含む)などを経て交付されていたいたのでこれらの名称は、国や各都道府県・政令指定都市の責任は決して免れられない。

 

 その問題を問わずして、ろうあ者やその家族や周辺の人々に責めを求めるのは誤っていると断じざるを得ない。

 

 ろうあ者同士の結婚は、それでなくとも多くの反対もあったが輪をかけて遺伝性の問題が反対に拍車をかけた。

 

 どんなに結婚したく思っていても、聞こえないこと、遺伝の問題は大きな壁として携わってきた。

 

京都のある企業が
ベビーシグナルとして

  開発して売り出した背景

 

  子どもが産まれたどのように育てるのか、赤ちゃんが泣いても解らないではないか、育てる知識も能力もないではないか、産まれる子どもたちがかわいそうだ、などなどあらゆることが列挙されてろうあ者に突きつけられていた。

 

 産まれた赤ちゃんが泣いた時、この問題を京都のある企業がベビーシグナルとして開発して売り出した。

 

 その背景には、その企業で働くろうあ者と働く人々の友情があったが、製品は高価なものであった。

 

 宇治市にろうあ者が、赤ちゃんを産んだらベビーシグナルを交付して欲しいという要求が出された。

 

 宇治市は全国の自治体にベビーシグナルを交付しているかどうかを照会状を出した。だが、すべての自治体では交付されていなかった。

 

 だが、それでもろうあ協会の要求は引き下げることはなかった。

 

ベビーシグナルの交付

 

 結果的に、ベビーシグナルは交付されることとなった。ベビーシグナル、と言っても今はほとんど知る人はいないだろう。

 

 だが、子どもが産まれたどのように育てるのか、などの答えをろうあ協会の要求運動の中で答えを導き出して来たことを忘れてはならないだろう。

 

 第一歩は、二歩でもあり、三歩でもあり、歩み続けることでもあった。

 

 

忘れるなかれ 優生保護の不妊手術 などの不当さと闘ったろうあ協会の歴史 自分たちの気持ちや要求を表現する文字

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手話を知らない人も

                    手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介


 1969年9月8日。京都。京都府庁で働く人々へろうあ協会が心を込めて配ったビラは、わずか9日の間に読み書きも充分出来ないろうあ者も含めて連日深夜の論議から作成された。

 

 そして1969年9月7日の深夜からガリ版刷りされ翌早朝の京都府庁でまかれたたビラ。

 

聞こえる人々に自分たちの思いを知らせる
    このような表現でいいのか

 

 みんなの思いが込められていた。

 

 聞こえる人々に自分たちの思いを知らせること、このような表現でいいのか、いやこのような表現がいい、と繰り返し、繰り返し相談しながら「みんなのビラ」が作り上げらたれてきた。

 

 読み書きをこのような中で獲得してきたろうあ者は少なくない。

 

 文字は、自分たちの気持ちや要求を表現するのだと言ったことを知ったろうあ者の読み書きの獲得には目を見張るものがあった。

 

ろうあ者の伝達手段は

   音声や文字だけではなく
唯一手話だけだと主張する人々
 ろうあ者の血の滲む

         伝達手段をゆがめている

 

 ろうあは読み書きが出来ないとか、文字は書けないのだとか、ろうあ者の伝達手段は音声や文字だけではなく唯一手話だけだと主張する人々は、ろうあ者の血の滲む伝達手段のコミュニケーションを極めてゆがめて「理解せよと言いながら曲解」を広めていると言わざるを得ない。

 

文字の獲得と

同時に自分たちの思いを現す喜び

 

 京都府庁で配布されたろうあ協会のビラを持ち帰り、「何度も、何度も」写して文字を覚えたろうあ者も少なくなかった。 

 

 文字の獲得と同時に自分たちの思いを現す喜びを獲得していった。

 

 手話通訳やろうあ者福祉は京都だから出来たのだ、と他府県の人から断定的に言われることが多かった。また、現代の京都の人でもそう言い切る。
 
 そこには、当時のろうあ者が次の世代やろうあ者だけのことではなく障害者全体のこと、全体のことをを考えもがき苦しんでいたのかは消去されている。

 

 どれだけ勇気をふるって京都府庁前でビラをまいたか。

 

 また会社を遅刻したことを理由に薄給から、それでもまだ賃金カットされた、大幅な収入減。それでも行動したろうあ者の気持ちを知る人は少ない。

 

 私たちろうあ者を含めた障害者政策の推進は、全京都府職員の皆さんの理解と援助によってこそ、発展するものであることを痛感しております。京都府が、私たちの切実な要求に答え真の障害者施策を推進するために、みなさんの御理解とご支援を訴えます。

 

とみんなの考えがまとまったことは、それまでのろうあ者の苦悩からの輝きを観いいだした取り組みが結実された結果なのであるる。

 

 このビラが、京都府全体に与えた影響は非常に大きかった。

 

 

忘れるなかれ優生保護の不妊手術などの不当さと闘ったろうあ協会の歴史 優生学 の 不妊手術 などの延長線であることを見抜いて

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手話を知らない人も

                 手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
 
  1969年9月8日。

 京都府ろうあ協会は、京都府社会福祉対策協議会の答申が「障害児者の発生予防を重視する」ことのみを考える傾向に反論した。

 

「障害児者の発生予防」のみを強調して
 他のことは何もしないということは

 

 「障害児者の発生予防」のみを強調して他のことは何もしないということは、優生保護の不妊手術などの「優生保護」の延長線上の考えであることを見抜いていた。

 

 だから、真の障害者の発生予防は、今日の職場合理化から生まれる労働災害精神障害・ノイローゼ・交通事故・サリドマイド渦・公害など社会矛盾によって障害者が日々作られているという現実をしっかりと認識し、その根源をうけとめ対策を立てることだと主張した。

 

 自分たちのことは自分たちしか理解出来ない、という障害者問題を排除する傾向を打ち破り理解と納得と必要な手立てを要求するものであった。

 

ろうあ協会の中での大激論の結果であった
問題の根本を捉えてそれの改善を迫る主張

 

 この問題の根本を捉えてそれの改善を迫る主張は、ろうあ協会の中での大激論の結果であったことを知る人たちは少なくなっている。

 

1969年9月8日。京都。京都府庁で働く人々へろうあ協会が心を込めて配ったビラは、さらに続けて訴えた。

 


 福対協事務局(京都府社会福祉対策協議会)のこのような立場は、「障害者はつくられている」という今日の社会矛盾を告発することも、「障害者の人権が守られていない」という現実を直視することもせず、単に医学的体制の整備のみで障害者の福祉が実現するかのような幻想上に今後立っていく危険を示しています。

 

 それは、真の障害者の要求をすりかえ障害者がつくられているということを肯定していくものです。

 

 私たちは福対協事務局のこのような誤った姿勢を正し、

 

身体障害者の方がたにも本当に生きがいのある地方自治を実現することを約束します。」(府議会での蜷川知事の答弁)

 

という府政の政策を実現していくためにも、私たちろうあ者の要求がもっともっと正しくくみ上げられなければならないと思っています。


 私たちの要求

 

 私たちは、当面次のような要求を持っています。

1,ろうあ者のための手話通訳を制度化せよ
2,手話通訳の養成を
3,京都ろうあセンターの事業に行政は責任を持て
4,教育をうけられないろうあ者に生活訓練を
5,ろうあ老人・ろうあ婦人が安心して働ける場を
6,ろうあ者の社会教育を一層発展させよ

 

  京都府職員の皆さん

 

 私たちろうあ者を含めた障害者政策の推進は、社会課だけでなく、全京都府職員の皆さんの理解と援助によってこそ、発展するものであることを痛感しております。

 

 京都府が、私たちの切実な要求に答え真の障害者施策を推進するために、みなさんの御理解とご支援を訴えます。

 

 このことにより、蜷川知事の意図された福対協の立場が明らかになることと、期待しております。