手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

手話はろうあ者同士が心を通わせるために創造されてきた 産まれた感性  全国手話通訳者会議から全国手話通訳問題研究会へ

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  手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 手話は言語であるとして、手話のことを書いている人々がにわかに広がった。

 

 でもよく読んでみると「言語」の概念を明らかにしないまま書かれているので、文の脈絡が散逸していることがある。

 

  言語の概念なしでつわれていないだろうか
    手話は言語だ と言う人々

 

 言語とは、
1,人間が音声・文字・手指動作などを用いて事態を伝達するために用いる記号体系。また、それを用いる行為。ことば。

2.ある特定の集団が用いる、音声・文字・手指動作などによる事態の伝達手段。個別言語。

 

などなどの意味があり、国際障害者の権利条約以前に日本では手話は言語という概念の中に包括されていて、先達者はそれを公的に保障されるために現在の人が考えられない程、屈辱に耐えながらも手話や手話通訳者が努力してきたことを忘れてはならない。

 

  わかっていると言うだけで
   具体的な一例も言えない

 

 最近、全国手話通訳問題研究会の役員と話すことがあったが、屈辱に耐えながらも手話や手話通訳者が努力してきたことはわかっている、と言う。

 

 しかし、先達者が手話と手話通訳を公的に保障されるために現在の人が考えられない程、屈辱に耐えながらも手話や手話通訳者が努力してきたことについての具体的な一例を問いかけても、わかっている、と言うだけだった。

 

 要するにわかっていないのに、わかったふりをするのがまかり通っているのか、と思えるほどだった。

 

 全国手話通訳問題研究会結成当初の思いが打ち消されているようなので、全国手話通訳問題研究会が、なぜ結成され、どんなことに取り組んだのかの出発点は別途明らかにしておきたい。

 

ある島でろうあ協会と手話通訳者が

具体的に取り組んだことを基礎に作成

 

 中学生、高校生のための手話テキストを作成するときに外国語を学んでいることをも想定して作成してきた。

 

 未就学のろうあ者が手話を獲得して、読み書きが出来るようになった過程はすでに明らかにしてきた。

 

 ただ、
「ろうあ哲の佐藤さんの家へ行くんだけど、いっしょに来ませんか?」サークルの山本さんに誘われて.ある日曜日ぼくは佐藤さんの家を訪ねた。

 

 にはじまるテキストはある県のある島でろうあ協会と手話通訳者の取り組みをベースにして作成した。

 

  家族以外の人との関わりがないまま

40年間 5年の働きかけ やっと

 心を開きその日の出米事を身ぶりで語る

 

1,家族とも会話も.「食ベる」「ねる」ぐらいの身ぶりだけ

 

  家族以外の人との関わりがないま40年間生き続けてきた佐藤さんは、話すこと書くことはもちろん手話さえできない。

 

 家族とも会話も.「食べる」「ねる」ぐらいの身ぶりだけとの話。

 

 地城のろうあ者や手話サークル員が.佐藤さんを訪ねるようになって5年。

 佐藤さんは.やっと心を開きその日の出米事を身ぶりで語るようになったという。

 

5年以上かけて地城のろうあ者や手話サークル員が、佐藤さんを訪ねた話は事実で、その後、佐藤さんは手話や文字を知るという飛躍的な変化を現してくる。

 

 長い時間をかけた助走の上に飛び立つような変化であった。

 

 ここで手話だではないが、手話や手話通訳を学ぶ上で、家族とも会話も.「食べる」「ねる」ぐらいの身ぶりだけ、の「食べる」「ねる」の二動作からのはじまりを学ぶ必要があると提起したかった。

 

 手話でろうあ者がお互いに心を通わせるために創造されてきた手話であるが所以に、ろうあ者同士のコミュニケーションが長い時間をかけても可能であると見抜いたのである。

 

 田中さんってすごい。あの身ぶりを見て、何が言いたいのかわかるんですもの

 

 これが手話なのである。

 

  このことで多くのことを調べ歴史を紐解いた。

 

 一例を挙げると歴史的には二の数からはじまっていて、ゼロの概念は歴史的には遅い。

 

 二つの動作が出来るということは、その組合せで無限の動作が出来るということであり、手話獲得の可能性を示していたのである。

 

 家族間だけ通じる「食べる」「ねる」の二動作をろうあ協会の役員は手話獲得が充分出来ることを感覚的に見抜いていた。

 

 本人に対する働きかけだけではなく、本人からの応答がある。

 

  家族とも会話も.「食べる」「ねる」ぐらいの身ぶりは、日常的に使われている手話ではないけれど、ろうあ協会の役員たちにはその身ぶりの意味は理解出来るので、それを糸口に未就学のろうあ者と共感関係をつくりながら、未就学のろうあ者の身振りと同じ事をしながらも少しずつ手話を教えて行った。

 

 二つの身振りの表出は、未就学のろうあ者が手話を獲得できると感覚的にも捉えられていた、のはすでに述べた「手話でろうあ者がお互いに心を通わせるために創造されてきた手話である」所以に、ろうあ者同士のコミュニケーションが長い時間をかけても可能であると見抜けたのである。

 

 二語の対発生の重大な意味があることを承知して欲しいと思う。

 

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手話 未就学のろうあ者の手話獲得と創造から学ぶ  全国手話通訳者会議最後の会議から全国手話通訳問題研究会へ1974年以降

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   手話を知らない人も

             手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

  手話通訳者・手話通訳士の人々が

 理解出来ない領域に
   思春期、青年期の子どもたちから

                          若く新鮮な感想
 

 中学生や高校生が手話を学ぶための手話テキストを作成したとき、読み書きがほとんど出来ないろうあ者に、読み書きと手話を教え合うろうあ者を多く見てきたからこそ思春期、青年期の子どもたちに問題を提起しておいた。

 

 ある意味答えのない答えであるが、年齢を重ねるにつれて新しい理解が生まれるように創意工夫をしたが、思春期、青年期の子どもたちから多くの感想が寄せられた。一部の○×でしかない教育評価に対する瑞々しい感想だった。

 

 だが、一番不評を投げかけてきたのが手話通訳者であった。そのためこの中学生高校生の手話テキストは「放棄」されている。

 

 手話通訳者は手話通訳士の人々すべてではないが、少なくない手話通訳者は手話通訳士の人々が理解出来ない領域なのだろうか。

 

ろうあ者 手話も十分知らない
  文字は書けない 読めない

 

未就学の佐藤さんをたずねの項で

 

「ろうあ哲の佐藤さんの家へ行くんだけど、いっしょに来ませんか?」

サークルの山本さんに誘われて.ある日曜日ぼくは佐藤さんの家を訪ねた。
手話サークルでは.ろうあ新の家を訪ねて,交流を深めているそうだ。佐藤さんは未就学、つまり学校へ一度も度も行ったことがないろうあ者だった。手話も十分知らないし文字は書けない、読めないとのことだった。
 佐藤さんのお母さんの話によると、佐藤さんは、生まれてすぐ熱がもとできこえなくなったそうだ。まもなく戦争が始まり.遠くのろう学校へ行くお金もなく.学校へ入れないまま農業を手伝って生活してきたとのこと。家族以外の人との関わりがないま40年間生き続けてきた佐藤さんは、話すこと書くことはもちろん手話さえできない。家族とも会話も.「食べる」「ねる」ぐらいの身ぶりだけとの話。地城のろうあ者や手話サークル員が.佐藤さんを訪ねるようになって5年。佐藤さんは.やっと心を開きその日の出米事を身ぶりで語るようになったという。

 

  ぼくにはさっぱりわからない

 

 ぼくらが行くと佐藤さんは待っていたように手まねきをして家の中へ入れてくれた。

 ろうあ者のリーダー田中さんが、「元気?」の手話をする。佐藤さんから「元気」という答え。
 そして、佐藤さんは、テレビを指さし、全身で何かを語る。

 ぼくには、さっぱりわからない。山本さんもけげんそうな顔つきで見ている。

 田中さんは.「ふんふん」とうなづきながら、ときおり手を動かして話を確める。

 

  何が言いたいのかわかるんですもの
そのつぶやきが今のぼくの心に残っている

 

 山本さんは、田中さんのようすを見て.

「今、テレビで火事のニュースを見たらしいわ。たぶんそのことを.話しているんだと思うわ。田中さんってすごい。あの身ぶりを見て、何が言いたいのかわかるんですもの佐藤さんの立場に立って考えるからなのね。私はまだまだだわ」

 帰りがけ山本さんはつぶやいたなぜか、そのつぶやきが.今のぼくの心に残っている。

 

未就学という問題に立ち向かいながらも
同じ仲間として

  交流を深めてきたろうあ者の人々

 

  中学生高校生のための手話テキストのこの部分は、全国各地で当時行われていた学校にも行けなかったろうあ者。未就学という問題に立ち向かいながらも、同じ仲間として交流を深めてきたろうあ者の人々とそれを見つめた手話を学ぶ側の教訓を凝縮して制作した。

 

 いくつかのポイントをまず述べておく。

 

1,家族とも会話も.「食ぺる」「ねる」ぐらいの身ぷりだけ

2,佐藤さんを訪ねるようになって5年。佐藤さんは.やっと心を開きその日の出米事を身ぶりで語るようになった

3,田中さんが、「元気?」のは手話をする。佐藤さんから「元気」という答え

4,全身で何かを語る  田中さんは.「ふんふん」とうなづきながら、ときおり手を動かして話を確める

5,田中さんってすごい。あの身ぷりを見て、何が言いたいのかわかるんですもの  私はまだまだだわ

6、山本さんはつぶやいたなぜか、そのつぶやきが.今のぼくの心に残っている

 

 この部分にはろうあ者問題や手話の本質的な問題を織り込んでいた。

 

 以下少し。解説していく。

手話 抵抗と創造の表現  全国手話通訳者会議最後の会議から全国手話通訳問題研究会へ1974年以降

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 手話を知らない人も

                手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

  押さえつけが強いほど抵抗と創造の力が

   形成されてきた手話と人間性

 

  「抵抗の手話」「相対するコミュニケーション手段を纏めあげてきた手話」はとても壮大であると思うし、ろうあ者もみんなも押さえつけられればそれに抵抗して新たな価値を見いだす力を持っていると考える、と書いた。

 

 手話を云々する人々は多いが、これらのろうあ者もみんなも押さえつけられればそれに抵抗して新たな価値を見い出し創造されてきた手話をどこまでも大切にする人は極めて少ないように思える。

 

 抵抗と自由。

 

 この表現は、ろう学校で発語が強要されたり、とても難しい漢字を覚えさせられたり、さらにろう学校にもいけなかったろうあ者の人々が、語り合い、意思疎通をはかる中で手話が上からの押しつけではなく、自分たちの創造で創りあげられてきた歴史的経緯をきちんと踏まえると人間が「制限された条件」であってもそれを創造的に可逆する能力があることを見いだされる。

 

 手話の本質は、まさにここに重要な基礎がある。

 

人間の持つコミュニケーション能力を
 限定的にしか捉えていないのではないか

 

 そういう経緯を考えず、短絡的に手話をこれだけ、とか、この手話は間違っている、これが正しい、と手話を教える人々は手話が言語であるという以前に人間の持つコミュニケーション能力を限定的にしか捉えていないのではないかとあえて述べておく。

 

  手話の形成と表現を学ぶことは
人間には限界がない学べる重大な取り組み

 

 手話がろうあ者の中でどのように創造され、お互いが心を通わせるものになっていったのかを調べるのは無限に近い。

 

 かといって、そのことを放棄していいとはならないだろう。

 

 残念ながらその取り組みは遅れすぎているが、それでも手話がろうあ者の中でどのように創造され、お互いが心を通わせるものになっていったのか、その表現方法を学ぶことは人間には限界がないとさえ思わせる重大な取り組みである。

 

底流にある手話でろうあ者が

お互いにこころを通わせるために

  創造されてきた手話と認めるべき

 

 各地域で表現される手話は、その地域でしか解り得ない手話であるかも知れないが、底流には手話でろうあ者がお互いに心を通わせるために創造されてきた手話と認めるべきであって、画一的な手話でないとしてその手話を踏みにじることは、ろうあ者の人間性をも踏みにじることでもある。

 

 手話がろうあ者の中でどのように創造され、お互いが心を通わせるものになっていたからこそ、ろう学校で学んだろうあ者もろう学校に行けなかったろうあ者も互いにこころを通わせるすべに熟知している。

 

  読み書きと

 手話を教え合うろうあ者を多く見て

 

 中学生や高校生が手話を学ぶための手話テキストを作成したときに、あえて、このことを表現した部分をテキストの中に入れたのは以上のような教訓があったからである。

 

 読み書きがほとんど出来ないろうあ者に、読み書きと手話を教え合うろうあ者を多く見てきたからこそ、底流には手話でろうあ者がお互いに心を通わせるために創造されてきた手話の存在を明らかにしたが、ほとんど注目されなかったのは残念である。

 

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抵抗の手話 相対するコミュニケーション手段を纏めあげてきた手話 全国手話通訳者会議最後の会議から全国手話通訳問題研究会へ1974年以降

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 手話を知らない人も

           手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

ろう学校では手話は

 一切禁止されていたと繰り返し述べる人々

 

 ろう学校では口話教育が徹底されていて手話は一切禁止されていた、と繰り返し述べる人々へ「手話は一切禁止されていた」てはいないことを調査した結果を報告してきた。

 

 例えば、口話法が徹底されていたことを否定するならば、手話唯一であると主張するのはおかしくなはないだろうか。

 

 口話法が徹底されていたことを全面否定するか、手話でしかないという手話全面肯定、の二者択一ではないと思う。

 

 口話法を否定して音声で発語できるのに口を閉じて手話をしている人々を注視すると、喉頭(発音器官)が動いていて音声を発している動きをしているのに、無理に発語しないようにしていることが解る場合が多い。

 

口話は唇を読むというのは正確ではない

 

 口話は、唇を読むというのは正確ではない。

 

 首から上部を動かさないと唇を変化させることは出来ない。人間の身体は部分部分のパーツの組合せではなく、身体の部分の部分部分が連関している。

 

 ひとつを否定することで他の正当性を主張することは可能かもしてないが、口話と手話の問題を対極に置いて述べるのは、結果的に手話の「知恵」をも否定すると敢えて記しておきたい。

 

 ろうあ者の人々は、多くの人々の中で生き、生活してきたが故にはなしことばも当然のように手話の中に取り込んでいる。

 

  シラバスということばの項でも述べたが、カタカナ用語も巧みに手話の中に取りい入れられてきた歴史がある。

 

  新しい時代 あたらしい流行語を
    ろうあ者同士の理解の仕方で

 

 タクシーは、戦前京都で導入されたのが早く、手話では円(円タク)を走らせたり、乗合自動車や戦後は、京都の数値の手話表現で「百」(百円で乗れる車)などなどさまざまに表現されていた。タクシーだからタ・ク・シーと手話で表す事はなかった。

 

 新しい時代、あたらしい流行語をろうあ者同士の理解の仕方でコミュニケーションされてきていた。

 

 このことは数え切れないほどあるが、ろう学校では口話教育が徹底されていた、と述べる人々は、強制的に強いられたことに対する人間に共通する「抵抗力」を見ていないのではないかとさえ思える。

 

  人間に共通する「抵抗力」と
 ろうあ者の「抵抗の手話」

 

 ろう学校で戦前戦後学んできた京都のろうあ者と数え切れないほど多くそのことを話したことがあるが、口話だけを強調し体罰を加える先生の前では大人しくしていたが、見つからないところでは自由に口話も手話も使いながら話をし、お互いが共通して理解出来る手話があれば、それでいい、それで話し合おうと自然に一致した手話が創りあげられていた、という。

 

  ろうあ者みんながわかり合える手話

 

 この押しつけられた教育方法に対して従順になるのではなく、逆にそれを採りいれられながらも自分たちが話しやすい方法を考えた。

 

 その主なものがみんながわかり合える手話であった。

 

 ろうあ者の「抵抗」の中から手話が創造されてきた側面を重視しなければならないとも考える。

 

「抵抗の手話」「相対するコミュニケーション手段を纏めあげてきた手話」はとても壮大であると思うし、ろうあ者もみんなも押さえつけられればそれに抵抗して新たな価値を見いだす力を持っていると考える。

 

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手話盛岡 両手の拳を横に突き合わせてそこからさくらが咲く 全国手話通訳者会議最後の会議から全国手話通訳問題研究会へ1974年以降

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 手話を知らない人も

                    手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 岩手県の手話をひとつの例にあげた。しかし、この手話のことをはなしをすると、そんな手話は絶対なかった、と言い切る人があって閉口した。

 

 今は全日本ろうあ連盟の会長をしている人と岩手のろうあ者の人々と志戸平温泉で手話表現のさまざまな特色を話し合っただけに想い出は尽きない。

 

 だだ、この手話が表現されていたということ。他の手話を否定する、つもりはない。

 

 ひとつの手話には、多くの歴史と思いとねがいが籠められているひとつひとつを大切にして行きたいという意味であるし、手話は、数え切れないほど日本中にあったということ。その表現には、歴史的文化的、生活などをすべて包括されている。この事実。これは伝承されなければならないと思う。

 

盛岡 
両手の拳の動きが重なり合った途端に
    両手の拳をぱっーと拡げる手話

 

 もう一つ岩手の盛岡で出会ったろうあ者の盛岡の手話を記しておきたい。

 

 両手の拳を横に突き合わせてそこから花(さくら)が咲く=盛岡という手話だった。

 

 両手の拳の動きが重なり合った途端に両手の拳をぱっーと拡げる手話。その拡げるさまは、桜の花とすぐ解った。

 

 だが、盛岡を、なぜそのように表現するのか解らなかった。

 

  手の開き加減で桜を表現する手話

 

 何年もして盛岡に行き、散策していたときに「両手の拳を横に突き合わせてそこから花(さくら)が咲く」が盛岡市にある石割桜を現していたのだということがすぐに解った。

 

 大岩の割れ目から咲く桜。盛岡の名所だった。

 

 ろうあ者の人々が強大な岩を割、桜咲く様子に自分たちの言い知れぬ重圧を跳ね返すエネルギーと美を思い重ねていたかも知れなかったのかも、と思った。

 

 だが、あの石割桜を手話表現することは出来なかった。

 両手の拳を突き合わせて手のひらを上方に開くのだが、その開き具合が見る者に「桜」とわかる手の開き加減がとても難しいからだ。

 

  手話は流れて表現されていた

 

 拳を突き合わせる+花 という二つの手話の組合せではなく、ひとつの手話として表現されていたからである。

 

 岩手という手話も盛岡という手話もひとつ(一動作)で瞬時に表現して、伝える。

 

 手話の特徴は、このことを見逃してはいけないのだと思った。

 

 悪い例でしか説明できないが、墨字で書かれた草書体の繋がりのようで、墨の濃淡やかすれにそれぞれの意味を籠めるように、手話は流れて表現されていた。

 

 だからひとつの手話から次の手話に移行するときは途切れる事はなく、すらすらと表現されていた。

 

 だからひとつの手話から次の手話に移行するため手の位置や指の位置が、途切れて表現されることはなかった。

 

  手話を見る側からすれば
 「流れる手話」の方が見やすく
    長時間話していると目が疲れない

 

 例えば、私学校に行くは、私・学校・行く、ではなく、人差し指を自分にむけてそのまま人差し指を下方に下げながら前方に指し示し学校。

 

 このことを強調するのは、手話を見る側からすれば、途切れ途切れの手話より「流れる手話」の方が見やすく、長時間話していると目が疲れないという意図しないが自然な表現であったのではなかろうか、とも思う。

 

  手話表現の知恵 手話の流れの知恵

 

 この時、人差し指を自分にむける微妙な動きによって、学校に行くことに躊躇していることも手話を見る側に解るのである。

 

 手話表現の知恵、手話の流れの知恵。

 

 これも故大原省三氏が、「手話の知恵―その語源を中心に」と表題をつけたことの意味の中に含まれているのではないかと思うようになっている。

 

 

 

 

丸山浩路 氏 全国各地のろうあ者と出会いその地域の手話をとりいれることに熟達 全国手話通訳者会議最後の会議から全国手話通訳問題研究会へ1974年以降

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   手話を知らない人も

    手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

  手話を理解し
  それを学ぶことが容易ではなかった

 

 ろうあ者の哀しみの歴史とねがいともにそれを乗り越えていく、知恵と力が豊富に籠められた創造された手話が、なぜ記録保存されたり、一部だけしか伝承されなかったのか。

 

 それは、それらの手話を理解し、それを学ぶことが容易ではなかったこともある。だがしかし、それで安易に「新しい手話」をつくっていいのだろうか。

 

  地域の手話に
 手話通訳者が習熟することを前提

 

 全国手話通訳者会議では、故丸山浩路氏は、全国共通の手話をつくることに対してそれぞれの地域の手話に手話通訳者が習熟することを前提とした。

 

 このことは極めて難しいことと思われるが、意外に容易な面もある。

 

 それは、地域地域でひとつの手話が違った意味合いで使われていても、それを把握しておけば、それぞれの地域に行くと他の地域で使われているが異なった意味で手話が出来ることが可能であったからである。

 

  故丸山浩路
全国各地のろうあ者と出会い
   手話で話をして

 その地域の手話を取り入れて会話

 

 故丸山浩路氏も全国各地のろうあ者と出会い、手話で話をして、その地域の手話を取りい入れて会話をしていたからである。

 

 これらは、1970年代初頭の各地の手話通訳者は当然のこととして受け入れていたため全国共通の手話でないといけない、という意見はほとんど出されていない。

 

 それは、全国手話通訳者会議参加者の人々がそれぞれの地域の手話に習熟していることを前提に全国の人々が集まるところでは共通してわかり合える手話で話をしたし、解らない手話表現があると、それをたずねて、共通理解したからである。

 

 たずねる、理解し合う、このことが共通の認識を高めることになった。

 

 岩手県原敬 

 と手話表現されていた奥深い意味

 

 一例を挙げると、岩手県は、白・右に前から毛をなぞる。すなわち岩手県出身の原敬氏(第19代内閣総理大臣)を現した手話であるが、岩手のろうあ者が原敬氏を尊敬の念を籠めて岩手県原敬と現していたことが解る。

 

 晩年の原敬氏は白髪で覆われているが、横に白髪流れるように手話表現することから彼が内閣総理大臣だった頃の肖像画と似ているように思える。

 

 現代では、岩手県をこのように手話で現す人はいないかもしてないが、ひとりの人物と県を現す手話にその歴史や想い、さらにろうあ者との出会いや交流を彷彿とさせる手話ではないだろうか。

 

 ひとつの手話には、多くの歴史と思いとねがいが籠められている一例である。

 

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故大原省三 氏 手話の知恵 で 手話について言いたかったこと 全国手話通訳者会議最後の会議から全国手話通訳問題研究会へ1974年以降

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 手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿

 

 故大原省三氏は、「手話の知恵―その語源を中心に」を出版している。

 

  なぜ「手話の知恵」と名付けたのか

 

 この出版の目的と出版のための調査研究について故大原省三氏の自宅で話し合ったことがある。

 

 故大原省三氏は、膨大書物とともになぜ、「知恵」と名付けたのかを長時間数日間語ってくれた。

 

 この手話の知恵―その語源を中心にをもとに全国各地で「手話の知恵―その語源」について取り組んでほしい、というのが、故大原省三氏の切なる願いだった。

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  手話の知恵を調べ尽くすことが
 ろうあ者の哀しみの歴史と

ねがいそれを乗り越えてきたことを知る

 

 それに応えて全国各地域の手話を調べ、絶えず連絡と交流を行ってきた。

 

 これを継続させることが、ろうあ者の哀しみの歴史とねがいともにそれを乗り越えていく、知恵と力が豊富に籠められた創造された手話を広めることであったが、費用も潤沢にある今日までそれが継続されては来なかった。

 

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