手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

専任手話通訳 がどうして 自治体に置かれたのか その実現の要因

f:id:sakukorox:20190620161822j:plain

手話を知らない人も

       手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

全国手話通訳問題研究会結成の思いと行動 

全国手話通訳問題研究会結成

 初代全国手話通訳問題研究会事務局長

   谷勇男氏へインタビュー

 

  地方自治体職員のルネッサンス

 

ーー京都で、先駆的な手話通訳専任などの取り組むがすすんだのは、どうしてでしょう。


  知事、市長などが今と違うと言うこともあるし、ひとりひとりを大事にするという行政。今執筆したいと考えていますが、「地方自治体職員のルネッサンスーこんな役人がいたらいいのになぁー」っと。

 

 今、役人というか公務員が孤立して、元気がない。元気があるように復活させたい。

 

あんな知事は出てこない

   地方自治の知事の元祖

 

憲法第8章 地方自治第92条【地方自治の基本原則】 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

 

 以上のことを京都府知事の蜷川さんはどのようなことも言われても徹底的にそれを行った人。

 

 その蜷川知事と「敵対」していた野中廣務も、あんな知事は出てこないと言っていた。

 

 蜷川知事が退任するとき京都府議会で野中廣務府会議員が議員を代表して謝辞を述べている。

 

 地方自治の知事の元祖は、蜷川虎三としている。

 

  ろうあ者の成人講座なども生まれた
 諸々の「下地」が京都にはあった

 

  今でこそ、とる漁業からつくる漁業などなどといわれているがすでに蜷川知事は言っていた。

 

 またろばた懇談会などの社会教育にも力を入れた。

 

 そこからろうあ者の成人講座なども生まれている。そういう諸々の「下地」が京都にはあったと思う。

 

  いい要素が府市協調で切っ掛けが作れて、すすんだ。

 

 京都で、先駆的な要因だったのではないかと思う。

 

専任手話通訳を検討するなかで  個別ニーズに応じて対応する障害者福祉など新たな取り組みをはじめた京都市 

f:id:sakukorox:20190619210502j:plain

手話を知らない人も

           手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

  全国手話通訳問題研究会結成の思いと行動 
全国手話通訳問題研究会結成当時の

 初代全国手話通訳問題研究会事務局長

   谷勇男氏へインタビュー

 

  障害者福祉などの既存の考えを打ち破って
 1年間かけて京都市が検討し実行

 

 京都市では私を含めてどのような形態でなどなど中身を考えるのに1年かけて、いろいろな分析をして役所の手話通訳はどのようなことをするのか、柱をたてて考えた。

 

 1,障害者、聴覚障害者の窓口としての専門性を京都市のなかできちんと位置づけていく。

 

 2,現実的具体的な聴覚障害者への対応、これはひとりでする仕事ではないが。

 

   3,手話通訳者の養成。

 

  4,京都市の障害者施策の中に聴覚障害者の専門性を位置づける。

 

 これは全国的にやられていないことでした。盲・聾・肢をまとめて福祉を考えていたことを個別ニーズに応じて対応していかなければならないという障害者福祉などの既存の考えを打ち破っていくことでもありました。

 

 5,市民に開かれた対応をする。手話を学ぶことも含めて聴覚障害者市民講座を開くなどなど。

 手話の方法や技術を学ぶのではなく聴覚障害者問題を市民が学べる機会をつくる。

 

京都市が全国的に
  突出したことが出来たのは

 

ーーそのようなことは、全国的に突出しすぎたこととしておもわれたのでは。

 

 他府県ではやられていなかったことだし、戦後の障害者団体や関係団体の盲人協会やろうあ協会や肢体障害協会などの団体助成だけに留まっているところが多かっただからでしょう。

 

京都市長 専任手話通訳を約束 市職員 びっくり大慌て 前例は何もない どうする

f:id:sakukorox:20190619133841j:plain

手話を知らない人も

  手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

  全国手話通訳問題研究会結成の思いと行動

 全国手話通訳問題研究会結成当時の

  全国手話通訳問題研究会事務局長

   谷勇男氏へインタビュー

 

  京都ライトハウスの移転と
   京都ろうあセンター

 

ーー1968年、京都ろうあセンターが出来たのもその頃ですね。

 

 京都ライトハウスの移転の話があって。その頃京都府庁に配属されていた向野さんがそのはなしを聞いて、オーナーの鳥居さんと話をした。

 

 ライトハウスの鳥居さんは、了解してくれ、鳥居さんと明石さん平松さんらろうあ協会の年配の人たち(当時)と話し合ってくれた。

 

 移転したライトハウスにろうあ会館をということは、全面賛成ではないけれど、ろうあ者の拠点が要ることは事実だった。

 

 今まで向野さんの実家である旅館丹後屋さんばっかりに世話になっていたし、迷惑ばかりかけるしなんとかせんと、とみんなが思っていた。
 
 旧ライトハウスをろうあ協会が使われるようになって、栖川君や大矢君が働くようになった経過がよく解らないが。その後、1969年に専任手話通訳が置かれる。

 

 富井京都市長自ら手話通訳を置くと
 京都市の職員が大慌て 前例は何もない

 

 私は、1969年の1年間は京都市の嘱託手話通訳でした。

 

 1970年に京都市の正職員として手話通訳をすることになる。
 
  京都市の嘱託手話通訳の話は、1968年頃、当時の富井京都市長とろうあ協会が懇談会をした。
 
 富井京都市長は、京都市に手話通訳を置きますと言った。市長自ら手話通訳を置くと。そのため京都市の職員が大慌て。

 そんな手話通訳必要か、京都市で手話通訳が出来る人が本当にいるのか、と大騒ぎになった。

 

 そこでどのような人が、などろうあ協会に尋ねたのではないか。

 ろうあ協会が、谷勇男しかいない、と言い、1969年の4月から嘱託で手話通訳者として働くことになった。

 

 ろうあ協会は、手話通訳を京都市に置くだけは言うが後の具体的なことは言わなかった。

 

初めて手話通訳を行政に
 1年間かけて手話通訳の形態と中身を検討

 

 京都市としては、訳がわからないまま市長が約束したことをどのように実行するか、戸惑いがあった。

 

 ともかく、全国的に先例がなかった。

 

 初めて手話通訳を行政に置く。

 

 どのように、どのような形態でなどなど中身を考えるのに1年かかった。

 

手話テキスト 動きをイメージ出来るイラスト含めて さらにビデオの導入も

 

f:id:sakukorox:20190618191700j:plain

 手話を知らない人も

 手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

全国手話通訳問題研究会結成の思いと行動 

全国手話通訳問題研究会結成

 初代全国手話通訳問題研究会事務局長

   谷勇男氏へインタビュー

 

ーー手話テキストのイラストは、動きをイメージすることを含めて作成するので非常に難しいですね。

 

 そうですね。

 

 美術大学の後藤さんという学生さんがいて今まで表現出来なかった手話イラストを何度も工夫して描いてくれた。そこで、「手で話そう」のイラストでも描かれた手話テキストの形態ができた。

 

 さらにその後、「手で話そう」は連さんと山本さんの協力もあり手話テキストが引き継がれて出されていった。

 初版から重版を重ねて。ライオンズクラブの人々が、いいもの出来た、と。単なる寄付ではなく生きる寄付だ、ということで評価していただいた。それを原資に発行し続けた。

 

 全日本ろうあ連盟がつくった「私たちの手話」が出版されていなかった以前のことですが。

 

莫大な寄付で購入された
 ビデオレオレコーダとカメラ

 ろうあ協会の反対の中で若いろうあ者が

 

ーーライオンズクラブからは、今では信じられないほど高価だった当時カラーのビデオはなく白黒のポータブルビデオレオレコーダとカメラが寄付されていますね。

 

 あのポータブルビデオレオレコーダとカメラが寄付はろうあ協会は大反対だったんです。

 

ーーええ、どうしてですか。

 

 ろうあ者にそんなものは要らない。

 

 でも、大矢君がこれからはそういう時代が来るので映像を記録して、ろうあ者のためになる時代が来るのでは、と主張した。

 

 若いろうあ者は喜んだ。


  新しい時代が来る、と。

 

 

 

手話サークル みみづく会 その名称 優秀な手話通訳者の背景

f:id:sakukorox:20190617200957j:plain

 手話を知らない人も

           手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

全国手話通訳問題研究会結成の思いと行動
全国手話通訳問題研究会結成

初代全国手話通訳問題研究会事務局長

  谷勇男氏へインタビュー

 

退いていく優秀な手話通訳者

 

-ー 全国手話通訳問題研究会が出来たとき参加していた手話通訳者が潰れる、離れる、人間関係のもつれで離れる、ということが非常に多かったんですか。

 

  とても多かった。

 

 優秀な手話通訳者は退いていく現状が。

 

  手話サークルみみずく会

               に参加していた経過

 

-ー 谷勇男さんは全国手話通訳問題研究会の初代事務局長として全国手話通訳問題研究会をつくる中心にいたわけですが、もともと手話サークルみみずく会に参加していた経過もあったわけですね。

 

 19歳頃、家がとても貧しかったから高等学校の定時制にいって昼働いていた。その時、同じ学校の日赤病院の准看護婦だった中村さんが、高等学校の資格を取って正看護婦になろうと勉強していた。

 

  どうも理不尽だ
  コミュニケーションの問題では

 

 その日赤病院にろう学校の西田先生が入院しておられた。西田先生は京都府立医科大学に入学して医者になろうとしていた、しかし、耳が悪くなってきた。そのため入退院を繰り返していたが、西田先生と担当医と絶えず喧嘩する。

 

 准看護婦だった中村さんがその様子を見ていて、どうも理不尽だ、と思っていた。

 

 やはり、コミュニケーションの問題では、ということになって。私は高校で中村さんとは友人だった。手話を勉強するのはどうしたらいいの、ということになった。

 

糺の森 京都府身体障害者福祉センター
  出会いと学びと手話サークル

 

 そこで京都市左京区にある糺の森京都府身体障害者福祉センターに行った。そこに行って手話や手話通訳のベテランの向野さんと出会った。

 

 そして、中西先生を紹介してもらった。

 

  京都大学北門前の進々堂の喫茶店ではじめてろうあ者と出会うことになった。そこから定時制の仲間を中心に会員を募って「みみずく会」が出来た。

 

「みみづく会」の名称は

  論議の末に産まれた

 手話を知る 学ぶだけではダメだと

 

 手話サークル「みみづく会」は、今はよく知られているけれど、当時はそうではなかった。

 
 定時制の仲間が中心になってつくったけれど、他の人もいた。ろうあ者が身内にいる人などなどが手話を学ぼうと、京都府身体障害者福祉センターで集まった。

 

 みみづく会の由来・名前は、

 当初は、「みみづく」でしたが、ふくろう科のミミズクを調べるなかでふくろう科のうち羽角のある種の総称がミミズクだと知りました。古名は「ツク」または「ズク」で、角毛の意です。学問の神様、知恵の象徴、森の賢者として、今じゃトトロのモデルとして有名になってしまいました。

 

 不苦労、福来朗にも由来しています。

 

 会の目的論議のなかで、奉仕活動か学習、研究会かの論議があり、日常活動を通じて社会的差別や偏見をなくしていく原動力になりたいという強い意識が単なる奉仕活動という枠組みを超える事ができたのです。


 差別や偏見のない社会を築くという手話を学びろうあ者と連帯して暮らしを共にする関係性が重視されました。

 

 ろうあ者個人や集団と喧嘩になったり、揉めたりすることも多々ありましたが、其れが当たり前の人間の関係性であり共に生きる社会の姿だと言えます。

 

 マイノリティー集団が権利侵害を回復し、その成果を自らの集団が勝ち取ったものとして誇る事は当然のことですが、

 これを絶対的なものとして、

 その成果を勝ち取るためにそれを支え協力、協同した集団や関係者の尽力や足跡、歴史を

 

 その集団のご都合主義で捻じ曲げたり、抹殺されたりすることは、真の民主主義と権利擁護の視点からは、あってはならない事だと今も考えています。 

 

 かなり意見交換・激論して、お互いの考えを付き合わせた結果、産まれた名称なんです。みみづく会は。

 

 みんなとても真剣でした。何ごとも。

 

京都府身体障害者福祉センター発行
 手話テキストが出来たのは

 

 ろうあ者の山本さんが絵を描いて、向野さんが編集し、ろうあ者の川島さんが印刷課の指導員であったので京都府身体障害者福祉センターの授産施設印刷機凸版印刷してもらった。

 

 京都府身体障害者福祉センター発行の手話テキストも、みみづく会がつくられてからつくってもらったりしました。

 

 ろうあ者全国大会京都 ガイドさんに

 手話を知ってもらおうと

  手話テキストをつくる

 

 ろうあ者全国大会が京都であって、ガイドさんに手話を教えるのに手話テキストがなかった。

 

 京都大会の前に松山大会で使われたガイドさん用の手話テキストを使うことになった。

 

 絵が描かれていない文章だったので、さっぱり分からない、ということになった。

 

 そこで、京都府身体障害者福祉センター発行の手話テキストを使って手話を覚えてもらおうということになった。絵は平面に書かれていたので限界はあった。

 

 私が、京都市の専任手話通訳になったとき、たまたまとても手話を絵で表すことが上手な人と出会うことになる。

 

 そこから手話テキストは、イラストをとり入れるなど大きく変わる。

 

 

 

 

七人の認定手話通訳者 市職員がその時代にそのような制度をつくった証でも誇り

f:id:sakukorox:20190617194906j:plain

 手話を知らない人も

  手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

全国手話通訳問題研究会結成の思いと行動

 全国手話通訳問題研究会結成

初代全国手話通訳問題研究会事務局長

   谷勇男氏へインタビュー

 

障害福祉関係の上司が賛成してくれて

 

 -ー 1971(昭和46)年5月につくられた京都市規則。認定手話通訳制度をつくることは京都市ですんなり受け入れられたのですか。

 

 いや、いろいろいろいろありました。

 

 京都市規則をつくる担当課では、このような規則は作った前例がない!!と言い続けた。

 

 前例がないならつくればいい、と言った。でも障害福祉関係の上司が賛成してくれた。

 

 認定手話通訳制度をつくることは、自分たちがその時代にそのような制度をつくったという証でも誇りでもある。

 

 やったらいい、やったらいいと応援してくれ、規則を作る担当課と課長などのやりとりしてくれて、ようやく1971(昭和46)年5月13日に京都市手話通訳認定規則と言われた名付けられてた京都市規則第16号をが公布された。

 

京都市認定手話通訳者は

   合議制ですすめられた

 

-ー 1971年5月につくられた京都市認定手話通訳制度をつくられてからは、特に問題は生じなかったんですか。すんなり、と。

 

 特に問題は出てこなかったですね。研修会したり、京都市認定手話通訳者の合議制ですすめていったので。

 

 一定の単位をつくって受講した人を最初は京都市認定手話通訳者が合議制で最初は互選でした。

 

-ー そういう京都市認定手話通訳制度が次第に本来の趣旨とかけ離れたようですが。

 

 まぁ‥‥‥ろうあ協会の動きもあったし、手話サークルみみづく会のなかで当時京都市認定手話通訳者は七人だったので、「七人の侍」とか「雲の上の人」と言ったり噂されることもあったが私たちはそのようには思わなかった。まったく(笑う)。

 

 京都市認定手話通訳制度をつくった以上は、設置事業と派遣事業をしなければと考えて二つの事業をつくった。

 

 それが、厚生省の社会活動メニューに入って、全国に広がった。

 

 ところが、国はあくまでも手話奉仕員養成事業。

 

全国手話通訳問題研究会は最初から
実践的にも理論的にも

 高めて行くことが潰され

 

-ー そういうことを受けて全国手話通訳問題研究会が、実践的にも理論的にも高次化していくということになったんですかねぇ。

 

  全国手話通訳問題研究会が、実践的にも理論的にも高まっていったとは、まったく思えませんね。

 各地方から、全国手話通訳問題研究会を実践的にも理論的にも高めて行くことが潰されていった、と思えてなりませんねぇ。

 

 各地のろうあ協会と手話通訳者、手話通訳者集団がまだまだ「未熟」なところがあった。

 

 京都は社会的にも確立した手話通訳者たちが、中心になっていました。

 いろいろ課題はあっても京都は手話通訳者として各市町に配置され活躍していたでしょ。そういう人たちが手話通訳の原則や組織原則の常識から外れるということはなかった。

 

 他の地域には、そういうことがなかったので手話通訳者が手話通訳から離れたり、潰れていく。

 

 手話通訳者が「埋没」してしまう状況があった。

 

 個人的問題や人間関係で。手話通訳者としても優れたことをしていても「潰され」「やっていけない」となって。

 

 

手話通訳者 公的認定 規則には深い知識と困難が 全国手話通訳問題研究会の役割と問題

f:id:sakukorox:20190616192502j:plain

 手話を知らない人も

               手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

全国手話通訳問題研究会結成

初代全国手話通訳問題研究会事務局長

  谷勇男氏へのインタビュー

 

京都市長が認定した手話通訳者を
特定団体が取り消せないのに取り消す原因

 

 -ー 京都市手話認定通訳は、京都市長が認定したんですね。ところが、その後京都聴言センターが認定を取り消している。京都市手話認定通訳要項には、認定取り消しは京都市長がすることが明記されている。
 問題は、都聴言センター所長が認定を取り消し他のは誤りであったと認めたが、誤りを正そうとはしない。こういうことが多くあるが。

 

 そう。そういうことが多くある。既得権と権限を持ってしまって誤りを正して元のようにしようとしない。

 

 京都市もみんな団体に丸投げだから何も言おうとしない。

 

京都市は手話を認めて手話認定した
    日本初の快挙

 でも現市長はそれすら知らないのは

 

-ー手話言語条例の時に、京都市長は、鳥取県よりおくれて、と言ったが京都市はは手話通訳や手話の問題では、はるかに先んじていたのに。

 

おくれる、はやいの問題どころではないね。

 

 京都市は、手話を認めて、手話認定した日本での第一号ですよね。

 

市長や京都市の職員が何も知ろうとしていなかったのではないかな。

 

多くの紆余曲折と京都市手話通訳認定規則 

 

  京都市手話通訳認定制度(注 1971(昭和46)年5月13日付京都市規則第16号を公布。この規則は、京都市手話通訳認定規則と名付けられていた。)は、多くの紆余曲折があって、規則作るのには、多くの困難がありすぎた。

 

-ー 具体的にどのようなことがあったんですか。

 

 自治体の首長=市長が何らかの公的な認証をするとかいうことはなかった。文化財保護などなどのようなことはあるが。

 

 個人を何らかな資格として市長が認めるということは、いくら全国の規則を調べてもなかった。 

 

  京都市のなかでも異論があったが、京都府に行って法律、規則などの専門職の人にも調べてもらった。

 

  自治体の規則で
 手話通訳者を市長が認定する例はないが

 

 手話通訳者を市長が認定するなどのことなどはありません。ともかく首長が公的に個人をある資格があるとして認定する規則も例もないですね、と言われました。

 

 もし、あえて、失礼な言い方ですが、参考にするのだったら知事が京都府の優秀な種牛。それを知事が認定しているということはありますが‥‥‥と。

 

要項や規則上の法的なスタイルで
 考えるなら参考になるのはこれ

 

 牛と人間はまったく違うが、要項や規則上の法的なスタイルで考えるなら参考になるのはこれですなぁ。と言われた。

 

 それを私が、手話通訳の現状に鑑みて、このような経験と知識をふまえて

 

(目的)
第1条 この規則は、聴覚及び音声、言語機能障害者(以下「聴覚障害者等」という。)との手話を主とする意思伝達技術(以下「手話技術」という。)及び聴覚障害者等に関する知識を持った者であって特に優秀な者を京都市手話通訳者(以下「通訳者」という。)として認定することにより、聴覚障害者等との意思疎通のため通訳を必要とする際の便を図り、もって聴覚障害者等の福祉の増進に寄与することを目的とする。

(申請)
第2条 通訳者の認定を受けようとする者は、京都市手話通訳者認定申請書(第1号様式)により市長に申請しなければならない。
(資格)
第3条 前条の申請をすようとする者は、次の各号に該当する者でなければならない。
(1)学校教育法56条第1項の規定により大学に入学することが出来る者またこれと同等以上の学力があると認められる者であること。
(2)通訳技術における聴覚障害者等に対する福祉活動(以下「通訳活動」という。)の経験がおおむね3年以上あること。ただし、聴覚障害者等の福祉関係機関または施設の業務に従事する者は、この限りでない。
(3)市本の区域内において通訳活動に従事出来る者であること。
(審査)
第4条 市長は、第2条の申請があったときは、申請した者に手話通訳研修を受けさせ通訳者として必要な通訳技術及び聴覚障害者等に関する知識を有するかどうかを審査する。
(認定)
第5条 市長は、前条の審査の結果、通訳者として認定したときは、申請した者に対し、京都市手話通訳証(第2号様式)及び京都市手話通訳者認定証(第3号様式)を交付する。

2 市長は、前条の審査の結果、認定しなかったときには、その旨を申請した者に通知する。
      ( 以下略 )

 

の案をつくった。

 

 規則だから拘束力は高いものであった。

 

 簡単に、手話通訳をしてもいい、手話通訳をやめなさい、というものでは決してなかった。

 

 それをつくって手話学習の市民講座などをはじめた。