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手話と手話通訳

京都の手話通訳者の取り組みと研究の中からの伝承と教訓をみなさまに提起します。戦前戦後の苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを決して忘れることはなく。

手話や手話通訳が正しいか 間違っているか だけで事が運ばれている

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      「負の条件」から「正の条件」へと転嫁する

  手話通訳者の職業病が解明され、手話通訳者の人間的構造や人間的特質が手話通訳の労働上考慮されていないことが明らかにされた。

 このことは、手話通訳とはなにか、手話通訳者の労働とはなにかを明らかにしなければならないことを一層求めていると前述したが、くり返して記載するが1980年代以降手話通訳者の間で手話通訳者の健康被害という「負の条件」から「正の条件」へと転嫁する動きは必ずしも強まっているとは言えない。

 手話通訳をすることが、健康被害を内包することが医学的にも解明された今日、私たちは健康で安全に手話通訳ができるように改善していかなければならない任務が課せられたとも言える。

 そのことを充分理解していなければ手話通訳者としての資格要件がない、とも断定しなければならない時代を迎えている。

 近年の手話通訳者は手話や手話通訳を行うときに「○か×」で事を済まされていることが多いように思われる。

 すなわち、その手話や手話通訳が正しいか、間違っているか、だけで事が運ばれているように思われてならないからである。

     意志が通じるための手話通訳が行われているかどうか

 肝心なことは、コミュニケーションが成立しているか、と言うことであり、ろうあ者の言いたいこと知りたいことや、聞こえる人の言いたいこと知りたいことが双方で交流でき、意志が通じるための手話通訳が行われているかどうかである。

 ところが、手話通訳はこうあらねばらならない、とか、なんの根拠も明らかにされないまま手話通訳が非科学的に無定量に詳細に規程化され、マニュアル化されているため手話通訳者も人間であることがないがしろにされてしまっていることが多い。

    人間の肉体の機能を無視した「新しい手話」

 その例は、人間の肉体の機能を無視した「新しい手話」などにも随所で見受けられる。

 右手と左手をまるで「奇術」のように動かすことが要求される肉体の機能を無視した手話表現。

 それをクリアーできる手指の動きができる人が手話通訳者として「堪能である」と評価されることは改めるべきだろう。

 手話通訳者が健康被害を受けてまで手話通訳をしなければならない非人間的「器用さ」を求める手話表現は、手話通訳者そのものを否定するものなのである。

    人間的労働の手話通訳の良さを最大限活用するために

 手話通訳者が体調不良であったり、疲労のピークになっていたり、時にはミスをしても「何も言えない状態」が「強いられて」しまっては、豊かな人間相互のコミュニケーションが成立するはずがないのである。

 極めて人間的な行為である手話通訳が、どちらか一方の人間としての機能を破壊して成立することは人間として許されないことである。

 本音がだせない手話通訳者の環境は、ストレスを抱え込ますことになり、精神的に追い詰められる結果を生むが、周囲のサポートもなく、「黙認」されてしまっている。

 人間が行う人間的労働の手話通訳の良さを最大限活用するためには、

「人間はあやまち(ミス・エラー)を絶対に起こさないどころか、むしろ起こしやすい動物である。」

「人間の能力を超えた課題を与えると、人間は自分の能力以下のことしか発揮できない。仕事の上でもこのことを気をつけなければならない。また、人間の感覚ははじめは鋭敏でもくり返していると鈍感になりあまり感じなくなる。」(健康で安全に働く 細川汀編著 文理閣 )

という常識を充分受け止め実践していかなければならないのである。

 この十数年間、全国の手話通訳者に数え切れない多くの健康被害が生じた。

 この原因をたどると、上記したことにしばしば行き着くことが多かった。

 手話通訳者が多くの経験と知識を発揮して、永く続けていくためには以上述べてきたことを踏まえての改善は避けて通ってはならないである。