いわゆる外国語通訳と手話通訳の違い
外国語通訳と手話通訳を混同することの根本的誤りの克服
手話は、健聴者の音声言語を取入れながら、「聞こえない」「話せない」という制約された条件の中で、「話そう」「聞こう」というねがいを実現するために、聴覚障害の人々がさまざまの情報を取り入れながらも独自に自主的に創造してきたコミュニケーション方法である。
それ故、手話の表現形態はろうあ者の歴史的・文化的・社会的・生産的などさまざまな領域と関連しながら発展継承されてきたことを踏まえた創造コミュニケーションであることを充分理解し、研究・検討する必要がある。
通訳者の存在がないかのような会話の成立
全通研発行「手話通訳問題入門4」( 全国手話通訳問題研究会発行 手話通訳問題入門4 1982年6月25日発行 外国語通訳の実践と教訓より )
には全通研大阪集会(1980年8月)で開催された外国語の同時通訳者である女性の講演記録が掲載されている。
彼女は、同時外国語通訳の理想形態として「外国語通訳者の存在がないかのような会話の成立」を強調し次のように話している。
「次に、同時通訳者が持っているべき"モラル"とか、注意点、義務の話をしたいと思います。
これは、手話通訳者の方も同じ通訳者ですから、共通している面もあるのではないかと思います。
まず第一に、いろいろな見方がありますが、あくまでも私の考えを申しますと、決っして目立ってはいけないと思います。
ちょうど"歌舞伎の黒子"。つまり、台詞を役者が忘れた時にうしろから言う。あるいは、文楽の人形使いのように、ならなければいけないと、私は思っています。
文楽をみなさまご覧になられたかどうかわかりませんけれど、文楽の人形というのは、頭、つまり、あたまの使いの人というのは、"上しも"を着て顔が見える人ですね。
左手を使う人、これは黒い着物を着て、顔も隠しているんです。
それから、"足使いの人"-これも黒い着物を着ている人ですね。
私は、このようにならなければいけないと思っています。
そして、そこで充分に自分のやらなければならない役割を果していながら、決っして、めざわりにならないこと、これが大事だと思います。
おそらくならないと思います。そうあるべきだと思っています。私が通訳者として一番満足に思える時は『そう言えば通訳者さんがいたんだなあ、忘れてた』と言われる時が、私は非常にうれしいと思っています。
外国語通訳は空気のような存在になれるが
それはすべてではない
通訳者は空気のような存在でなければいけないと思っています。
ある時、車の中で日本の方とアメリカの方が前に乗って、通訳者が後に乗って二人の会話を冗談のとばし合いの会話を訳したことがあります。
その時私は、後の座席に座っていたわけです。
ところが、アメリカにおりました時ですから、非常に車の中が広いわけです。
ですからほとんどいすに隠れて、私は足が短いですから、前に届かないんで、ちょっとかけて前のいすに手をかけて、犬のようなかっこうで一時間ぐらいのドライブの間に同時通訳をしたことがあります。
その時は、お二人がテキサスの方と日本人の方が、日本語と英語で、お腹をかかえて笑い出したんですね。
一時間ぐらい、よく口がおかしくならなかったと思うんです。
けれども、その時は、私も通訳者として、非常にうれしかったですし、日本語と英語という、まったく異なった言語を話す人たちが、通訳を介在にして、通訳がいることを忘れて、楽しい話ができた。
それによって、それまでつまっていた交渉が打開できましたので、大変いい思い出になりました。そういう時が大変うれしいと思います。
あるいは、通訳がいても、それを忘れて、大きな会議の席で口論ができたり、喧嘩という言葉は悪いですけれども、充分な討議ができたり、笑えたりした時それは私ども同時通訳者が、本来の目的を達せられたと思っています。
そうなるためには、通訳者がまん中に出すぎては決していけないわけです。おもしろい話も、通訳者がまん中に出てしまったら、お互いのあいだでのキャッチボ-ルのあいだに入ってしまったら、そのおかしさとか、あるいは剣幕といったものが消えてしまうわけです。
キャッチボールをするのに、ピッチャ-とキャッチャ-の間に、誰かがいたら、キャッチボールのおもしろさは全然ありません。それと同じことです。このように、黒子であることは、大変重要だと思います。」
この彼女の主張は、講演を聞いた少なくない手話通訳者に大きな影響を与え、手話通訳者も彼女の主張する同時通訳と同様な状況になるべきであるという主張がこの時期から盛んに行われるようになった。
本質的違いを踏まえない 重大な誤りが生まれた
この時期より深刻な状況を生み出したのは、名称は「通訳」という共通性があるものの外国語の同時通訳と本質的に異なる手話通訳者に彼女の主張を取り入れ、本質的違いを踏まえないで同一線上で手話通訳者のモラルや倫理が論議されるするという重大な誤りが生まれた。