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手話と手話通訳

京都の手話通訳者の取り組みと研究の中からの伝承と教訓をみなさまに提起します。戦前戦後の苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを決して忘れることはなく。

双方が必ず「手話通訳者を見る」ことによって成立するのが手話通訳の特徴

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 「決っしてめざわりにならないことこれが大事だ」

「通訳者は空気のような存在」

「黒子である」から手話通訳者の服装や色具合、舞台で手話通訳をするときの位置などなど「目立たないことが手話通訳者」であるかのように描き出される傾向が濃厚になっていく。

  以下なぜ、「本質的違いを踏まえないで同一線上で手話通訳者のモラルや倫理が論議される」ことの誤りがあったか述べる。

       同時通訳者の日本語に違和感を感じる

 人間のコミュニケーションの一方法としての音声言語であれば、対面した異言語の二人や複数者に対して音を媒介とすることによって、同時通訳者という第三者の存在は意識しなくてもコミュニケーションが成立するだろう。

 このことは、あくまで二人や複数者がそれぞれの言語に精通していることを前提にしている。

 なぜなら講演した彼女は国際会議などに出席する人々の外国語通訳の経験を言っているからである。

 これが、ロシア語と英語と日本語となると状況は全く違ってくるし、国際会議に出てくるようないわゆる「知的水準の高い」とされる以外の人々との「同時通訳」であれば、彼女が「空気のような存在」「黒子である」ことができたかどうかはなはだ疑問である。

 テレビで同時通訳の報道番組を聴いて、同時通訳者の日本語に違和感を感じない人は少なくないだろう。

      矛盾する言語機能の統合的統一

 例えば、英語の構成と日本語の構成が違うため「同時進行」で「通訳」できないことは自明なことである。


 問題は、多くの同時通訳者がそれを「矛盾する言語機能の統合的統一」の努力をしているからで、この「矛盾する言語機能の統合的統一」では手話通訳者も外国語手話通訳者も共通していると言うことなら理解はできるのであるが。

 講演した彼女はそうではなく「通訳者」は「空気のような存在でなければならない」とまで言い切ってしまったのである。

 それをストレートに受けとめた手話通訳者の側にも基本的弱点があったと指摘せざるを得ない。

 

「手話通訳者が空気」になることはできない

 

   「手話通訳者」を相互に見ない限りコミュニケーションは成立しない

 手話通訳は全身運動を「見て」理解するため「手話通訳者」を相互に見ない限りコミュニケーションは成立しないのである。

 この単純なことですら現実的思考を失い「通訳」という言葉のみの共通性で考えると第三者の存在が忘れ去られていくことは、本質的に手話通訳の理解が不足していることの表れである。

     図 外国語通訳 コミ1      

      A ⇔ C ⇔ B

              通訳者  

  「図 外国語通訳 コミ1」では、Aと Bがコミュニケーションが成立するためには、Cという通訳者が存在するが


    コミュニケーションが成立する⇔それぞれ音声のためAとBは、通訳者Cを「見なくても」コミュニケーションは成立する。

  
      図 手話通訳 コミ2 

   A  ⇔   B  

    C 通訳者

 

          「図 手話通訳 コミ2」では、AとBがコミュニケーションが成立すためには、「コミ1」と同様にCという通訳者  う通訳者が存在するがAが健聴者であった場合は、通訳者を「見なくても」コミュニケーションは成立するが、Bがろうあ者の場合は、通訳者Cを「見なければ」コミュニケーションは成立しないのである。

 

 どちらか、もしくは双方が必ず通訳者=「手話通訳者を見る」ことによって成立するのが手話通訳の特徴である。

 

 この本質的なことを考えると「手話通訳者が空気」になることはできないのである。

 

 現実的不可能であることの現実を見ないで、このころから空理空論の論議がはじまり手話通訳者を苦しめたり、自らの首を絞める事態が生じてくる。