繰り返し、くり返し、くり返し
京都のろうあ者の戦争体験を記録していたときもそうであった。
Mさんの戦争体験を聞きたいと言って出会ったとき、Mさんは、大阪空襲後の自分が見た絵を準備し、それを見せながら情景を手話で説明した。
そして、彼は市電の線路脇に横たわる黒こげた死体に出会うたびに、手を合わせ祈る動作を繰り返し、くり返し、くり返し、歩いていった手話表現をしてくれた。
それを見ていた側の脳裏には、絵に描かれた情景を祈りつつ歩くMさんの姿と行動だけしか残らなかった。
(手話通訳問題研究会発行 手話通訳問題入門 4 1982年6月25日発行 国際障害者年のはじまりにあたって-語りつぐ戦争体験を今こそ-佐瀬駿介 著)
いくつかの手話表現をして、相手の脳裏に映像を残しながらそこに「新たな人」・「物」を「合成」する手話表現は、高度な手話表現である。
だから、私たち手話を学ぶ者は、なかなかその領域に達することができないし、そのことの分析と研究がされていないのである。
「読み取り」と称する「試験」
あくまでも一時的に限定された場面での
一方向から見た「テスト」
さらに、平面化できないこれらの手話表現は、ビデオなどの二次元的平面では再現出できず、一定の領域に達した人間と人間によるコミュニケーションの中で成立する「認識」であるがゆえに、広く認識され重視されてこないでいた。
近年よくあるビデオや画面の「読み取り」と称する「試験」などがあるが、それはあくまでも一時的に限定された場面での一方向から見た「テスト」とされなければならない。
一方向の「コミニケーション」は
コミニケーション全体の一部であってすべてではない
ましてや50%でもない
なぜなら画面上に映し出された映像はすでに取捨選択され編集されているばかりか、A⇒Bという一方方向の映像にすぎない。
そこには、「質問」や「問いかけ」や「全身から発せられるコミュニケーション」はなく、通常無表情な演者の手の動きしか映し出せないからである。
A⇔Bの関係で、「読み取る側」がコミュニケーションをとることは許されていないのである。
資格があっても認知できない手話の深淵
現状のままでは、初級・中級・上級とランキングされ、その資格を持った人々であっても、あまりにも巧みな手話表現を見ても、その手話表現を「認知」できないだろうとも言えよう。
巧みな手話表現は、手先の動きや技巧にあるのではなく、その時、空(くう)に見手を引き込むことのできるものである。
それ故この手話表現は、短期や中期期間で「真似」できる代物ではない。
あらゆることを駆使してまでも、私たちに伝えようとするろうあ者の気持ちに、あらためて尊敬の念を持ち、私たちはそこから学び、高度なレベルの手話研究をすすめて行かなければならないのである。
軽視、無視し・放置されてきたという哀しみの手話
この研究は、膨大な作業と時間を求められることもあり、軽視、無視し・放置されてきたという哀しい日本の歴史がある。
このことからも人間のコミュニケーションを日本人は、どのように評価したかが分かる。