ろう学校への爆発的ろう教育改善要求
ろう学校で起きた「授業拒否事件」は、ろう学校が学校として、教師が教師として、の役割を果たすべきであると要求したのであり、その点ではそれまで我慢を重ねてきたろうあ者のろう学校への爆発的ろう教育改善要求であり、それは実は当たり前でささやかな要求ですらもあった。
それすらもろう学校に言えないことが長期に続いていたためろう学校生徒・ろう学校同窓会・ろうあ協会がろう学校に対してその教育を改めるように要求したことは、京都のろうあ者運動で画期的なことであったのである。
そこには、基本的人権を要求するろうあ者の姿が見られる。
「授業拒否事件」が起きた時、京都府教育委員会は、「授業拒否事件」は、ろう学校の生徒の自主的な動きではないと断定し、生徒を扇動した教師がいるはずである、として、その教師を極秘に調査することを行ってF・M先生が生徒を扇動した「首謀者」とした。
事件から数十年たって「授業拒否事件」が、ろうあ協会やろう学校、手話通訳分野でさかんに取りあげられはじめた。
「沈黙」は、ろう学校教師にとって校内外不利にならない方向
その時、この事件を知らない全国の人々が「授業拒否事件」に関わったと思い込んでいる、またそうだとされている「著名」なN・I先生は、京都府教育委員会が、生徒を扇動した教師と断定した教師のリストにはまったく載っていない。
なぜならN・I先生は、事件の時にはほとんどアクションを起こしていなかったからである。
ましてや生徒の要求を支持を表明し、行動することもなかったし、ろう学校内部でも同様のことは行わなかった。
F・M先生は、学校内外で生徒の要求を支持を表明し、行動した。だからこそ、京都府教育委員会は、「授業拒否事件」は、ろう学校の生徒の自主的な動きではないと断定したのである。
学校内での「沈黙」は、ろう学校教師にとって校内外で不利にならない方向であった。
これらのことは、当時行動したろう学校生徒たちから、その後すべて証言を来たことからでも明らかである。
事実を確かめないで、憶測だけで「授業拒否事件」が横行し、話される今日の手話通訳者の状況は信じがたいものがある。
「授業拒否事件」に対する問題点や・意見・改善などを要求していたF・M先生。
それを当時の京都府教育委員会は、「要注意教師」として捉え、「首謀者」として断定し、事件が一定の「冷静期」をむかえたとき、その「首謀者」をろう学校から異動させれば、ことは収まると考えていたのである。
なぜ、このようなことを明らかにすることが出来るのか。
それは、「授業拒否事件」以降に、京都府教育委員会の「授業拒否事件」の担当者が予測が出来なかった事態が起きたからである。
即ち、「授業拒否事件」以降、京都府・京都府教育委員会は、「授業拒否事件」の担当者を「更迭」し、「首謀者」としたF先生を京都府教育委員会の指導主事に抜擢するという「天変地異」ともいうべき「変革」を行ったからである。
自分が首謀者として生徒を扇動したいう
調査・報告書を見て驚愕した指導主事
京都府教育委員会の「授業拒否事件」の担当者が画策していることをまったく知らず、新しく指導主事になったF先生は、数年後、京都府教育委員会の「授業拒否事件」の一連の書類をみて自分が首謀者として生徒を扇動したいう調査・報告書を見て驚愕する。
京都府と京都府教育委員会は「授業拒否事件」の「首謀者」とされる教師を指導主事に抜擢し、指導主事にしたことは、京都府と京都府教育委員会がろう学校の生徒たちやろうあ協会・ろう学校同窓会の要求の正当さを認めた現れでもあり、ろう学校教育やろうあ者福祉に根本的「改革」をはかろうとした決意の現れでもあったのである。
そればかりか、その後の事態は、京都府と京都府教育委員会が、それまで「特殊教育」と言えば、盲聾教育とされていたものをさらに充実させながらも、京都全体の障害児教育を根本から見直そうという決意の表れでもあったと言える。
就学猶予・免除をなくす取り組みを進めていく切っ掛けを
つくった「授業拒否事件」
京都府や京都府教育委員会は、「授業拒否事件」以降、府民の要求に応えて、与謝の海養護学校の建設をはじめ当時教育制度としてあった就学猶予・免除を無くす取り組みを進めていく。
そして、全国でも先駆的障害児教育の方向を打ち出していく。
この切っ掛けを創ったのが、京都ろう学校で起きた「授業拒否事件」であったことを知る人々は極めて少ない。
ろう学校やろう学校の教師たちはなにを考え
改善・改革の方向を打ち出していくべきであったか
ここでは、1965(昭和40)年11月18日 京都府立ろう学校で授業拒否事件で、ろう学校やろう学校の教師たちはなにを考え、改善・改革の方向を打ち出していくべきであったかだけの要点だけを述べておく。、
① ろう学校が、ろう学校という以前に「学校」としての基本的原則を守るべきであった。
このことを書くと、当時惜しみない努力と日本でも先駆的なろう教育を進めていた教師までも否定することになるのではないか、と言われてきた。
これらのことは、ろう学校の教育やろう学校で事件が起きる度にくり返しろう学校の一部の教師から発せられた言葉である。
たしかに、日本でも先駆的なろう教育は京都ですすめられていたことは、いくつかの事例であげられる。
紙面の関係で、ここでは1例だけをあげておく。
「授業拒否事件」が起きた時、教師と生徒で、「そのようなことを言った」「言っていない」ということがしばしばあった。
教師の側から聞こえない生徒が「聞き間違っている。」とする発言である。
ところが、生徒の中には先生の言ったことが充分聞き取れる生徒が居た。それは、補聴器を装用していて聞こえる人々の発言をほぼ聞き取れる生徒が複数居たからである。
生徒会の中で、これらの生徒を含めて先生の言ったことが、どうだったのか、が絶えず確かめられていた。
その上で、生徒たちが先生の言ったことは、こうだった、と言ったのである。
ところが、補聴器を装用していて聞こえる人々の発言をほぼ聞き取れる生徒が居ることすら認識していない、一部の教師は、生徒の言っている事は「違う」と主張したのである。
聞こえる、聞こえないという根本
「聞こえの状態」すら理解できないでいる教師が居た
聞こえる、聞こえないという根本。
信じがたいことであるが、生徒たちがどのような「聞こえの状態」であるかすら理解できないでいる教師が居たのである。
この補聴器を装用していて、聞こえる人々の発言をほぼ聞き取れる生徒が居たことは、そのご京都ろう学校で聴能教育の先駆的実践と繋がる教師たちがいたからである。
ところが、その「先駆的実践者」である教師と生徒がどのように聞こえているのかすらも知ろうとしない「素人同然」と言われても仕方がない教師が「混在」していた。
ろう学校として一定まとまり、一定の水準を維持していなかったからろう学校に対する批判は、先駆的実践をしていた教師までを否定することにならない。