手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

常識を常識として 非常識をなくすろう教育を

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          非常識が常識化していたなれ合いの克服
 
「授業の始業時間をきっちり守って教室に来て欲しい」

という生徒の要求に対して、ろう学校の専門性云々する以前に学校として当然していなかった原因を反省して、改善すべきであったのである。

 普通校では、常識、当たり前のこととして行われれている教育原則が、なぜろう学校で守られていなかったのか。

 非常識がまかり通っていたろう学校も教師も深く反省すべきであった。

 

   幼稚部、小学部、中学部、高等部などが

         一貫性を持っていなかったろう学校

 

②  ろう学校は、対外的には「ひとつの学校」と見られていたが、ろう学校の内部では、幼稚部、小学部、中学部、高等部など各部がそれぞれ「まったく別な学校」として「存在」していたことを改めるべきであった。

 幼稚部、小学部、中学部、高等部など各部が一貫性を持った学校として設立されていたのだからその特徴を生かした教育を進めるべきであった。

 

 今日では、一貫教育とよく言われる。

 当時の京都ろう学校が幼児期から青年期までの「一貫性」の機能を持ちながら、内実はまったく逆な動きをしていた。

 対立関係もあった。

 

 そのため「授業拒否事件」は、対外的には、ろう学校で起きた事件として認識されていたが、ろう学校内部では、「あれは高等部で起きた事件」とされ、ろう学校全体の問題として、認識されず、充分な検討もされてこなかったとも言える。

 

「授業がよくわかるもの中心であり、こうした差別には納得がいかない」
という背景には数多くのろうあ者の不満がある。

 

   しっかりとした学力を得られるろう学校へ

 

 事件が起きた当時ろう学校卒業生の多くから聞いた話は、「私は、小学部6年なのに教科書は4年生の教科書で授業がされた。なんかへんだった。」などなどのことがある。

 そのことをろう学校の教師に聞くと「ろう学校の生徒は、聞こえないから4年、5年、6年遅れた授業をしているのだ。」という話がしばしば、返ってきた。

 

 「遅れがある」ならそれ、以降の学年で取り戻すようにされているのか、といえばそうではなかった。

 高等部になると普通科教育はなく、「手に技術をつけてこそ、ろうの生徒は生きていける。」として、職業学科が置かれていたからである。

 

 では、その職業学科。

 例えば紳士服の課程を卒業した生徒が、紳士服で自立して生活できていたのか、と言えばほとんどは関連のない仕事か、例え紳士服の仕事についても薄給でしかなかった。

 ろうあ者やろうあ協会は、これらのことを充分承知していた。だから、ろう学校は、「授業拒否事件」を教訓に各部がばらばらではなく、大綱的基準でまとまり、その機能を発揮すべきであったのである。

 

     アメリカから導入された概念  「インテグレーション」

 

③ ろう学校では、教育方法や教育改革をろう学校としての専門性からを深く追求し、ろう教育の規範を示すべきであった。

 

 「授業拒否事件」が起きた時期。

 ろう学校で幼稚部では口話教育を徹底し、インテグレーションとして、幼稚部の生徒を普通校に積極的に送り出し、インテグレーションが出来なかった生徒が、小学部に行くという生徒の能力主義、序列化傾向が強まっていた。

 それらを追認して、1969年に文部省協力者会議は、「インテグレーション」というアメリカから導入された概念を出した。

 

 1970年代になると、幼稚部を卒業し、普通校に在籍する生徒がろう学校の小学部・中学部・高等部の生徒数を上回る事態も生まれていた。

  そのためろう学校幼稚部の教師の中では、「幼稚部を卒業した生徒はどんどんと普通校にインテグレィトして、ろう学校はなくなるだろう」と公然と主張する事が多発していた。全国各地からそれらの成果を期待してろう学校幼稚部に入学させた親は少なくなかった。

 

 この時期、この問題をめぐって②の項で述べたようにろう学校全体の中で充分論議されることなく事態が進行していったため、京都の教育に少なくない混乱が生まれた。それを克服して行くには、少なくない時間と普通校の教師の少なくない奮闘が必要とされた。

 

     聴覚障害生徒を含むすべての生徒に
     豊かな教育が保障され教育内容の享受出来た

 

 しかし、インテグレーションなどの方法がよかったのかどうか、という激論があったが、今日、注視しなければならないことは、授業拒否事件の時に生徒たちが出した、「授業がわかるように研究をもっとやって欲しい」ということである。

 ろう学校では、生徒に「よくわかる授業」をもっと大規模に研究・検討・教育実践すべきだったのが「授業拒否事件」の教訓だったのである。

 

 このことが、真摯に行われていたら、ろう学校生徒はもちろん普通校で学んでいたすべての聴覚障害生徒を含むすべての生徒に豊かな教育が保障され、教育内容の享受出来たはずである。
 
     ろう教育を分離して考えることの曲解

 

 「授業拒否事件」の教訓を充分検証していない人は、「授業拒否事件」の教訓が「口話教育」から「手話教育」へ転換であったと局限する。

 だが、はたしてそうであったのだろうか。

 

 その答えは、聞こえる学校とする普通校で、主として先生がしゃべり、生徒が聞くという教育が行われているが、生徒たちがはたして「授業がわかる」という状況になっているのか、どうか、ということを比較検討すれば明らかである。

 その点で、「授業拒否事件」の当事者であるろう学校と生徒たちが出した要求は、大切である。

 

 彼らは、単純に手話による授業ということではなく、基本的で総合的な教育改革の中で手話による教育を要求したのであり、手話教育だけを要求したのではないと言うことである。

 

     過去への決別を求めたもの

 

 「手話通訳保障の要求と根拠」では、京都で「福祉事務所に手話の出来る職員を」と要求した背景を「ろう学校依存からの独立宣言」と述べていることは、以上述べてきたことなどが背景にあり、「ろう学校依存からの独立」してこそ、ろうあ協会やろう学校卒業生は自由にものが言えるとも考えたことを述べたかった。

 ろう学校にろうあ者が「依存」しなければならないため、さまざまな問題があり、さまざまに苦しみ哀しんできた。

 それだから、手話通訳保障やろうあ者福祉の充実はのほとんどは、ろうあ者がろう学校に依存しすぎていた過去への決別を求めたものであったと言える。

 

 「福祉事務所に手話の出来る職員を」・手話通訳者の登場は、ろうあ者にとってろう学校・教師に依存せずろうあ者の思いと行動を可能にする第一歩の切実な要求であったことは、特筆しておかなければならないことなのである。