手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろうあ者と健聴者 を「差別」と決めつける分断を乗り越えて

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     「差別」の手話の表出と平等

 

 ろう学校の授業拒否事件が差別問題ですまされる前後して、ろうあ者の「差別」にたいする手話は、「右手と左手を平行にして、平行の手を上下に分ける」ことで示された。

 

 「平等」であるものが、「上と下」に分けられ、「不平等」になることを「差別」という手話で表したのである。

 「不平等」なものであれば、「平等」にする為には、「上下」をなくす。

 すなわち「平等になる」という手話。

 

 この手話表現は、差別を感情や感覚が先行したり、それだけに依存しない客観視した表現であった。

 

     健聴者からの強い偏見に晒された経験から

 

 だが、それまで蓄積されていた健聴者からの強い偏見に晒された経験から、健聴者に対する根深い不信感は拭えきれないももあった。

 そのことを大きく変革したのが、手話通訳者による手話通訳で知り得たこと、ねがいや要求や聞きたいこと、知りたいことが次第に出来るようになってきたことであった。

 

 1969(昭和44)年4月から9月にかけての6ヶ月間でもその実例と教訓が明らかになっている。

 この6ヶ月間について、社団法人京都ろうあ協会が運営した京都ろうあセンターがまとめた「開設準備期間中の京都ろうあセンター事業のまとめ 相談事業を中心として」に具体的にかかれている。

 この「まとめ」を集団論議してまとめた4人のうちの一人として、以下まとめに書かれていることを解説しておく。

 

     単なる孤立だけでなく、社会的地位の低さなどから
          人格、能力など正しく評価されず、見下げられ
        はれもの扱いされたりする

 

 まとめでは、職業ではろうあ者は
「二重、三重の差別を受けていること」や家族・職場・地域などのろうあ者をとりまく集団の中でろうあ者は、「単なる孤立だけでなく、社会的地位の低さなどから、その人格、能力など正しく評価されず、見下げられ、はれもの扱いされたりする差別的な孤立」
があるが
「ろうあ者に対する無知、又そうせざるをえない社会的なものがうしろに存在している。」
などを「まとめ」。

 

     ろうあ者だから甘やかしていること、特別かわいそうだと
   思っていたことが   本人のためにもならなかったと反省

 

 そして、
「ろうあ者だから甘やかしていること、特別かわいそうだと思っていたことが、結果的に本人のためにもならなかったと反省が出されている。
 そんな中で、ろうあ自身の社会における集団としての一員としての自覚がわずかずつではあるが高められてきた。

 しかし、これら一定の成果にもかかわらず、一般のろうあ者疎外、差別視と、ろうあ者自身の被害者意識は、これらの取り組みを困難にしている場合も多い。
 これらのことから今後さし当たって手話通訳と相談員の連絡を密にしていくことと、手話通訳の養成が大きく望まれる。」

と課題を明らかにしている。

 

      労働条件の改善、賃金差別撤廃のなかでろうあ者は

 

 この根拠となった直接的事例な事例は数え切れないが、「まとめ」に沿って二つの事例を解説しておきたい。

 

事例  2-1
 京都市右京区の会社で働くろうあ者から訴えがあった。

「長年勤務してきた職場の労組が春闘で労働条件の改善、賃金差別撤廃などを要求してストライキに入り、会社はロックアウトに出た。
 闘争には労組員としてついていきたいが、聞こえないので、その進展状況などがわからず、又妻の出産が近づき、金がいるので、家族から第二組合へ行けといわれ、毎日苦痛である。」

という話の内容だった。

 

 ろうあセンターでは、ろうあ相談員と手話通訳をそれぞれ、会社との話し合、労組の集会、地方労働委員会、家庭に派遣した。

 ともかく、ろうあ者に様々な状況をすべて知れるように保障した。
 そんな中で、ろうあ者差の友人仲間から苦しむろうあ者の人々を援助するために「守る会」が作られ、会社で働く人々と連帯しつつ独自の問題にも対応するための日常的援助体制が作られていった。

 このことは、仕事と労働条件と家庭。
 会社と労働組合の交渉。

 その中で第二労組が作られ、第一労組にいたろうあ者への「切り崩し」が行われるという激しい労働運動の渦中にろうあ者が漫然としなければならない状況をろうあ者のねがいに応えて、取り組みがすすめられた例である。

 

   自覚的行動を主体的に起こしていかなければ
   「二重、三重の差別」を無くしていくことにはならない

 

 このような取り組みは、1969(昭和44)年以前にはなかった。

 ろうあ者はただただ狼狽えるか、何もされないで放り出されるだけであったからである。

 

 しかし、ろうあ者の側も待ちの姿勢であったり、知らんぷりをするのではなく、自覚的行動を主体的に起こしていかなければ、職業分野での「二重、三重の差別」を無くしていくことにはならないのだということを教えることとなった。