国が出してきた手話奉仕員養成事業と
その背景とその克服の取り組みと教訓
手話奉仕員養成制度と自治体の手話通訳者との矛盾の克服
ろうあ協会の各地での取り組みからはじまった手話通訳保障要求は、教地方自治体を揺り動かし、それに対応するために国は、1970(昭和45)年から手話奉仕員養成事業をはじめた。
この事業は、聴覚障害者のコミュニケーションの円滑化を図るため都道府県及び政令指定都市への国の補助事業とし、1995(平成7)年からは、市町村への補助事業として実施されてきた。
このことについて、
「事業開始以降全ての都道府県等で実施されるようになったこともあり、国民に手話を普及し、手話通訳活動に参加する者を育成する上で非常に大きな効果があった。
しかし、反面、養成カリキュラム等が不十分であったため、実施にあたって都道府県等で地域格差が生ずる結果となった。
1981(昭和56)年の国際障害者年を契機に、聴覚障害者の社会参加が進み、これに伴って手話通訳ニーズの拡大及び手話通訳内容の多様化、専門化が進んできた。
従って、これらの状況の変化に対応できる手話通訳者等の養成が必要となってきている。
全国の手話通訳者養成・派遣の現状は、その大半が現行の手話奉仕員養成事業及び派遣事業で行われており、当面これらの事業の充実が緊急課題となって」
いると厚労省(当時)などは主張していた。
手話通訳の「公的」部分を消去しようという意図
手話奉仕員養成事業は、もともと手話通訳者の行政への配置要求に対して国が「奉仕員」という名称の下に手話通訳保障の国・行政責任を国民の「奉仕」に転嫁する目的で出されてきた事業であり、手話通訳の「公的」部分を消去しようという意図が当初からあった。
奉仕という用語の意味を充分吟味
奉仕という用語には、
「つつしんでつかえること。献身的に国家・社会のためにつくすこと。商人が客のために特に安価に売ること。サービス。」
の意味があり、ろうあ者と健聴者のコミュニケーション保障という概念はなく、人間的平等をコミュニケーションで実現することではなく、「一方が他方へ」という「無償の手話通訳提供」を推し進める概念を内包していた。
この基本的考えは、厚生省が厚生労働省と編成されても変更されることはなかった。
京都 みみずく会手話通訳団 手話通訳は権利である
そのため厚生省(当時)の出してきた「手話奉仕員養成事業」に対して京都でみみずく会手話通訳団会議が開かれ「手話奉仕員養成事業」への評価と検討がなされた。そして以下の見解がまとめられた。
1、手話通訳は権利である。
権利保障の一環としての手話通訳保障が国・行 政責任で行われるべきものである。
2、しかし、手話奉仕員養成事業は国民全体へ手話の認識を広げる絶好の機会であると同時に「養成を」全国的に数少ない手話通訳者の育成・確保の機会として捉えていく。
3、手話奉仕員養成事業は、研修の機会として位置づけ養成受講者には「登録」などのことはせず、あくまで手話通訳者の自治体設置を基本とする。
4、そのため京都市の場合は、手話通訳者の公的保障の一環として、京都市 長が手話通訳者を認める「手話通訳者認定制度」などがつくられていった。
5、全国的には、手話「奉仕」という考えが強い中で、みみずく会通訳団会議として、「権利としての手話通訳」を全国的に提起して行く。
「手話奉仕員養成事業」への評価と検討の見解は、現代から検討すると相矛盾する問題や深く検討されていない問題もあると考えられる。
「手話奉仕員養成事業」への評価と検討の見解は
相矛盾したがあえて……
しかし、手話や手話通訳が公に認められては来なかった1970(昭和45)年以前を勘案して、多くの問題がありながら国が公の文章や事業で「手話」や「手話通訳」を認めたことを「理解」して、それを機転に「奉仕」から「保障」へ取り組みをすすめていこう、とする意図がみみずく会手話通訳団会議にあった。
そのため「手話奉仕員養成事業」への評価と検討の見解は、相矛盾する問題や深く検討されていない問題もあえてみみずく会手話通訳団の見解として出したのである。
「手話奉仕員養成事業」を機転に「奉仕」から「保障」へ取り組みをすすめていこう、とする意図を実現していくために京都で実施された「手話奉仕員養成事業」は、奉仕という概念を極力使用されないでいた。
時代制約の中での手話通訳「保障」と「権利」と
「自己責任克服」の葛藤
ここで明らかにしておかなければならないことは、みみずく会手話通訳団が1970年代に手話通訳を「奉仕」に対峙させた形で「権利」という概念を打ち出したものの「手話通訳とは何か」「なぜ権利なのかの充分な根拠」はもちろん、手話通訳労働の内容まで充分検討されたわけではなかった点がある。
手話通訳者の身分保障を主張しながらも、手話通訳者の手話通訳労働の解明が出来切れていなかったことは、「権利としての手話通訳」としながらも「ろうあ者の権利」を認めて、「手話通訳者の権利」を「考慮」することなく「軽視」される弱さを内包していた。
そのため「手話通訳者の権利」問題は、手話通訳保障論議の中で「矛盾を残したまま」取り組みがすすんでいくことになった。
許せない 手話通訳をよぶことはろうあ者の自己責任
手話通訳を「奉仕」やろうあ者の自己責任で手話通訳を呼ぶ「手話通訳・自前・自費」などのことは、1970年代以前に行政や手話通訳者の一部でしばしば主張されたことである。
1970年代以降、「手話通訳を呼ぶことはろうあ者の自己責任」で対処すべきだとする「手話通訳者を依頼する事はろうあ者の自己責任論」はさまざまな言い方や形態を変えて、論じられていくが、ろうあ者の生活実態はそれを許さないものがあった。
自前・自費は ろうあ者の生活をますます
困窮化させることは火を見るよりも明らか
それは、
1、ろうあ者の労働実態(賃金・労働条件など)が、前近代的労働状況に追いやられていて、まともな雇用関係がほとんど存在せず、雇用者側は「雇てやっているのだから、文句などは問答無用」という労働環境が存在していた。
そして、労働するろうあ者の人格自体が否定され、物扱いされる悲惨な実態があった。
しかし、一方、他の障害者と比較すれば、ろうあ者は雇用されている、働かさせてもらっているという「好条件」があるのではないか、とされて障害者団体間での対立などもあった。
しかし、いくらこのようなことが話されてもごく一部のろうあ者を除いて、圧倒的なろうあ者の生活実態は貧かった。
その状況を踏まえるならば、ろうあ者が手話通訳を必要とするならば、「手話通訳者を自前・自費で連れてこい。」ということは、ろうあ者の生活をますます困窮化させることは火を見るよりも明らかであった。
手話通訳者がろうあ者とともに罵倒される時代を見据えて
2、しかも、ろうあ者の依頼に基づいて手話通訳者がろうあ者と同行しても相手側(健聴者)から拒否されることはほとんどであり、ともに罵倒されることはしばしば見受けられた。
手話や手話通訳が社会的に認められない時代は、手話通訳者も社会的に認められない時代であった。
手話通訳保障をろうあ者に求めるのではなく
社会的に求めていく根拠
3、以上の事実を踏まえて、ではどうするのか。
1970年代以前の京都における「みみずく会手話通訳団」は、一定の自発的規律を持ったグループとしては、手話通訳保障をろうあ者に求めるのではなく社会的に求めていくのが常識的事項ではないかと捉えられていた。
しかし、その保障の根拠をどうするのか、という論理の「壁」にぶち当たっていた。
米軍のための「通訳」が
行政側に置かれていた「実績」があるのならば
しかし、その後、京都の手話通訳者集団の調査によって、京都府の歴史を解明する中で戦後の米軍支配下の中で「進駐軍」(駐留米軍)のため京都府庁に「通訳者」が置かれていた実績があることが判明した。
米軍のための「通訳」が行政側に置かれていた「実績」があるのならば、府民であるろうあ者のための「通訳」が置かれても当然のことになるだろう。
地域社会の統治がその構成員である住民の参加と
同意にもとづいておこなわれているとき
しかも、
「地方自治とは地域社会の自治のことであり、個人の自治、集団の自治と同様に、自律と自己統治との結合形態である。
すなわち、ある地域社会がこれを包括する国民国家の主権との関係において一定の自律性を有するとき、その地域社会には団体自治があるという。
また、ある地域社会の統治がその構成員である住民の参加と同意にもとづいておこなわれているとき、その地域社会には住民自治が成立している。」
という原則から考えても地方自治体が手話通訳を保障していくべき役割があるという結論に達した。
住民自治の主人公となりうるためにも
「聞く権利」「はなす権利」が保障されていなければならない
4,なぜ手話通訳がろうあ者にとって必要なのか。
という根拠と論理を形成しながら、住民自治の主人公の一員であるろうあ者を住民自治の主人公となりうるためにも「聞く権利」「はなす権利」が保障されていなければならない。
だから、手話通訳はろうあ者にとって「権利」なのだとしてまとめあげられ、京都における「みみずく会手話通訳団」の意見と・問題提起として伊東雋祐氏が福島県で開催された全国手話通訳会議で、報告することとなったがこのことは重大な誤解を広めることとなった。