手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

自治体への 手話通訳採用 は ろうあ者福祉 の第一歩

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   もっと健聴者と広く

 深く解り合えるためにも手話通訳者を

 

 職場でろうあ者は、健聴者とともに労働環境や労働条件の改善のために意思疎通のためのさまざまな独特なコミュニケーションが成立していた。

 

 職場の中でともに働くものだからこそわかり合える環境がある。

 

 それを条件にコミュニケーションが成立していた。

 

 もちろんそのためにろうあ者が苦労に苦労を重ねた働きかけをしていたことは言うまでもない。

 

 そして、少しずつ手話を覚えてもらっていた。

 

 健聴者対ろうあ者ということがあっても、連帯感がそれを上回った。

 

 その基盤の上にろうあ者からもっと健聴者と広く、深く解り合えるためにも手話通訳者が職場に来て手話通訳をほしいと要求があったのである。

 

 健聴者と対立するろうあ者、という関係の中から手話通訳者の配置が求められてきたと決めつけることができないのが京都の歴史的事実であった。

 

   地方自治体における手話通訳保障の第一段階

 

  1969(昭和44)年から1970(昭和45)年にかけて京都市に専任手話通訳者が嘱託職員として配置され、その後、専任手話通訳者が正式採用され名実ともに京都市職員となった。

 

 このことは、手話通訳保障の歴史に画期的な影響を与えることになった。

 

 今日では数え切れないほど多くの手話通訳者や手話通訳のできる国・自治体職員がいる。

 

 しかし、京都市の専任手話通訳者の採用がなければ今日の状況が生まれていたとは言えるだろうか。

 

  困難と巨大な壁に立ち向かい 
 打ち抜く力を京都のろうあ者と手話通訳者が形成した

 

 「実績」。

 当時の行政担当者はしばしばこの言葉を口にした。

 

 全国どこでも採用されていない手話通訳者を採用することはできない。

 

 どこかの自治体や国の制度があれば、手話通訳者を配置したり、採用することは考えられないこともないのだが…「実績」がないからと言うのが行政担当者の手話通訳者の配置の断りの言い分であった。

 

 手話通訳者の行政への配置を実現する過程は、現代ではとうてい考えられないほどの困難と巨大な壁に立ち向かう必要があった。

 

 これを打ち抜く力を京都のろうあ者と手話通訳者が形成したのだからそのレベルの高さを推し量ることができるだろう。

 

   手話通訳者を採用したのだから
 ろうあ者から要求は出されてこなくなるだろうと行政

 

 現在から、実現した過去をさまざまに評価することはやさしい。

 だが、肝心なのは手話通訳保障を実現することであることを決して忘れてはならないのである。

 

 ひとつひとつの困難な問題をひとつひとつ丁寧に乗り越えてきたからこそ実現したのである。

 

 行政の巨大な壁に針ほどの風穴を開けたが、京都の手話通訳者はそれを「最高」の出来事と考えるよりも「手話通訳保障の出発点」と冷静に考えていた。

 

 だが、手話通訳者を採用した京都市は、手話通訳者を採用したのだからろうあ者から要求は出されてこなくなるだろうと「終結」を考えていたのだが、その後その期待はそれを大きく裏切られることになっていく。

 

  京都市で手話通訳者の正式採用が実現したのだから、京都の各自治体で手話通訳者の採用が次々と簡単・やすやすと実現したのかと言えば決してそうではなかった。

 

 手話通訳者集団とろうあ協会が

     頻繁に意思疎通を図り共同行動

 

 京都市政令指定都市という当時は巨大財源を有していたが、京都府下の市町村は地方自治体としての財源も乏しく、またそれぞれの自治体は独自の課題に直面していたために一筋縄でない取り組みが必要であった。

 

 そのためろうあ協会と手話通訳者集団は日々打ち合わせを行い共同行動を行ったのである。

 

 これほど手話通訳者集団とろうあ協会が頻繁に意思疎通を図り共同行動をとるということはろうあ協会の歴史の中でもかつてなかったことであった。