手話 と 手話通訳

京都の手話通訳者の取り組みと研究の中からの伝承と教訓をみなさまに提起します。戦前戦後の苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを決して忘れることはなく。

手話とは

 

  手話とはろうあ者が

  日常の伝達の手段として用いている記号の一種

 

  かんたんに言えば、手話とはこのろうあ者が日常の伝達の手段として用いている記号の一種です。
 これらの人々は生れたときからか、または非常に幼い時から聴力に障害をもっているため、ふつうの人々と同じように白然に言葉を習得することができず、特殊な教育を受けて、言葉を学んできた人々です。

 

    ろうあ者同志の集団の中から発生させ、発展させた手話

 

 そして、特殊な教育で言葉を学んでも、やはり聴力に障害がありますから、ふつうの人と同じように、らくに言葉を使つて話をすることができず、そのために、手話という独特の記号を、ろうあ者同志の集団の中から発生させ、発展させ、日常の生活の中で会話の補助手段として使っている訳です。

 

  全国のろう学校では、すべて、

       口話法で教育するようになった

 

 ろうあ者に対する教育がはじよった時は、手話を使って言葉を教えていました。

 ところが今から約四十年ほど前、口話法という新しい教育方法がはじめられ、今では日本全国のろう学校では、すべて、この口話法で教育するようになっています。

 

     口話法とは

 

 口話法とは、ろうあ者にもやはり発声器官を訓練して発音することを教え、また、唇の形や動きから、言葉を説みとる披術を訓練し、それと併行して言葉を教えていくやり方です。

  

   激烈な理論的、実践的な論争がくり返された
        口話法がよいか、手話法がよいか


 口話法がよいか、手話法がよいか、かって激烈な理論的、実践的な論争がくり返されました。
 そして、一応、口話法の時代になった今でも、「手話も必要か、必要でないか」といった形で論争が続いているのが今日の姿です。
 

こういう論争は非常に狭い導門的な立場から行われたもので、一般の人々にはなかなか理解できないものです。

 

  教育の方法論だといっても
 口話法、手話法で一筋なわ、二筋なわだけで律し切れない

 

 もともと一人の人間がこのややこしい世の中で、人間としての権利の享受を全とうして、生きていくという大テーマの内容は想像するだけでも複雑なもので、それを、いくら教育の方法論だといっても、口話法、手話法の一筋なわ、二筋なわだけで律し切れる。
 全責任をもてるという訳ではありません。

  

 今のろうあ者は決して手話だけで話をしているのではない

 

 語学の教育でも、一ダースぐらいの方法論があります。
 そして、ここではっきりと確認していただきたい事実は、今のろうあ者は決して手話だけで話をしているのではないということです。
 ろうあ者といっても今では、言葉の教育を受けています。
 そして、はっきりとした発語として表現するにせよ、表にあらわれない内言語として使用するにせよ、完全・不完全の程度の差はあっても言葉で話をしている訳です。

 ただ、それをお互いに伝達する手段として、口話や手話や指話をいろいろまぜ合わせて使っている訳です。

  

手話を学ぶグループの中で学習し、さらにろうあ者の人々と交際し、ろうあ者が持っているいろいろな喜びや悲しみや社会問題に、じかにふれた生なましい実感の中から学んで

 

 こう書いてきますと、書いている本人にはよくわかっているつもりでも、はじめて手話を学ぼうとされる方々には、なんだかわけのわからないようなことを書いてしまったようです。

 しかし、これ以上のことは、白い紙に黒い文字でかいた知識としてではなく、実際に手話を学ぶグループの中で学習し、さらにろうあ者の人々と交際し、ろうあ者が持っているいろいろな喜びや悲しみや社会問題に、じかにふれた生なましい実感の中から学んでいっていただきたいものと思います。

  

  「手話」という言葉に
     ずっしりとした実感を感じることができるようになって

 

 勿論、手話にも、もっと高度な社会的、歴史的、理論的研究の分野もあります。 しかし、これは以上のようにして、「手話」という言葉に、あるていど、ずっしりとした実感を感じることができるようになっていただいた後の問題です。
 このパンフレットもそのつもりで、きわめて初歩的、現象的なあみ方をしました。その方が実際の目的にかなうと考えたからです。

     京都の手話の手引きのため1960年代検討された手話に対する考えより