※ 現在手話通訳に携わる人々は、さまざまな言い回しで手話や手話通訳のことを話すが、手話と手話通訳が日本国憲法などでどのように位置づけられているのか、またどのように考えていかなければならないのかを充分考えている人は少ないように思われる。
この手話と手話通訳の述べてきたことについてもほとんど考えられないで、「日本」という手話は、「このようにします」ということだけが手話学習であり、またそのようなことを適合させるのが手話通訳であると考える傾向が多い。
だが、そこには一面を強調するあまり、全体が見失われている危険がある。
手話や手話通訳は、多くの人々が産まれながらに持っている基本的人権を保障する一つであり、それを理解することで人間連帯が産まれるのである。
1970年 京都市に次いで宇治市に手話通訳のできる公務員が正規職員として採用された
1970(昭和45)年、京都市に次いで宇治市に手話通訳のできる公務員が正規職員として採用された年である。
いわゆる、中央と地方の行政施策にこのような「雲泥の格差」を生じさせたのは、一体何であったのかを考えなければならない。
コミュニケーションの自由に対し国=国家が干渉してはならないことは当然であるが、だからといって手話通訳保障を行わない理由にはならない。
それは、国民の権利保障義務ということからも国及び市町村(地方自治体)の重大な責任に属する。
手話をコミュニケーションの中心として使用する人の
「排除された実態」をなくして
国はコミュニケーション保障をすすめるべきであった
手話をコミュニケーションの中心として使用する人は、その他の国民との自由なコミュニケーションから「絶対的に排除された実態」ともいえる状況があった。
その「排除された実態」をなくして、国はコミュニケーション保障をすすめるべきであった。
保障することは、干渉や介入出来ると言うことでは決してない。
保障する形態は、国や市町村であってもその内実は国民による税負担によって保障されるということである。
基本的人権の侵すことのできない
永久の権利を保障することは
税金の無駄遣いを理由に
権力を勝手に行使することではない
最近、この基本を行政は忘れ、税金の無駄遣いだとか、と称して国民から付託された権力を勝手に行使していることは目に余るものがある。
日本国憲法第11条は、
「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。」
としている。
このことは、手話によるコミュニケーションにもあてはまることである。
基本的人権の享有を妨げられない中に
音声と手話との双方向の自由な交流を包括していた
しかし、日本国憲法のこの条文は、音声と手話との双方向の自由な交流を包括していたにもかかわらず少なくない人々に理解されては来なかった。
手話をコミュニケーションの中心として使用する国民を、国民として考えられてこなかったとも言ったほうが適切だろう。
国民のコミュニケーションが自由に行えないという実態の解消を経なければ基本的人権は保障されない
聴覚障害者を含めた国民のコミュニケーションが自由に行えないという実態の解消を経なければ、基本的人権は保障されない。
従ってこの保障をすすめ実現することは、憲法でいうところの基本的人権の保障でもある。
国や市町村(地方自治体)は
コミュニケーションの自由に干渉してはならないが
自由なコミュニケーションの実現に到達するためには
むしろ積極的な支援が必要
これらを理解して、憲法を遵守すべき国や市町村(地方自治体)は、コミュニケーションの自由に干渉してはならないが、自由なコミュニケーションの実現に到達するためには、むしろ積極的な支援が必要であったのである。
これが手話通訳の公的保障を求める原則的理念の根拠であろう。