読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

手話と手話通訳

京都の手話通訳者の取り組みと研究の中からの伝承と教訓をみなさまに提起します。戦前戦後の苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを決して忘れることはなく。

手話通訳は 情報提供という一方通行の考えにある危険 あらゆるものが手話表現出来るという考えは 手話を知らないことである

 

 

f:id:sakukorox:20160711203528j:plain


   最近の手話通訳事情からの再検証を考える

 

        運動不足だからもっと歩きなさい

 

 事例 7-3

 

     もう足が痛くて歩けない いったいどれくらい歩いたらいいの?

 

 ある日、手話通訳者の家のチャイムが鳴った。

 出てみると近所に住む高齢なろうあ者だった。玄関にへたり込んだままなので

 

「どうしたん?」

 

と聞くと

 

「お医者さんに運動不足だからもっと歩きなさい、と言われたので朝から歩いているけれど、もう足が痛くて歩けない。いったいどれくらい歩いたらいいの?」

 

と言うので

 

    朝からずーっと、もう2時間ぐらい

          足が痛くて、痛くて

 

「いつから歩いているの?」

 

と聞くと

 

「朝からずーっと、もう2時間ぐらい、足が痛くて、痛くて」

 

と言う返事。

 

 医者に行った時に手話通訳はされていたが、医者の言った中味が通じていないのである。

 

 「毎日買い物に行っている店、あそこまで行って帰ってきたら1㎞。それだけ毎日歩くだけでも運動になるんやで。」

 

と言うと

 

「なんや、それだけでいいの!」

 

と言う返事が返ってきた。

 

    骨はぼろぼろやから 骨を丈夫にするため魚を食え

 

 しばらくして、そのろうあ者の家に行くと、

 

「いい時に来た。お医者さんが、あんたの骨はぼろぼろやから、骨を丈夫にするため魚を食え、って言われたから魚を買ってきたから見てくれ」

 

と頼まれた。

 

 そして冷蔵庫から魚の入ったパックを出して見せてくれた。

 

  しかし、そのパックは、骨のないきれいな鯛の切り身が二切れ。

 

「鯛もいいけど、じゃこや鰯、メザシとか、丸干しとか、骨と一緒に食べられる魚あるやろ。」

 

「そんなん知らんわ」

 

となった。

 

      骨粗鬆症」「ジャコ」「いわし」のメモ

 

 他府県で育ったそのろうあ者には、京都の「鰯」の手話は通じなかった。

 

 メモを出してきたので見ると

骨粗鬆症」「ジャコ」「いわし」

の文字が走り書きされていた。

 お医者さんか、看護師さんか、手話通訳者が書いたのだろう。

 でも、ろうあ者にはそのことが通じていなかった。

 

       なんや これ 知ってるわ

 

 いつも行く店に二人で行って、

 

「ジャコは、これ」

「いわしは、これ」

 

と説明したら

 

「なんや、これ、知ってるわ」

 

と言うことで話は終わった。

 

     血を濃くするために野菜を食べなさい

 

 またしばらくしてお医者さんから貧血気味だから

「血が薄いからもっと血を濃くするために野菜を食べなさい」

と言われたと言って冷蔵庫から白菜を出してきた。

 京都では、野菜と白菜を同じような手話で表現する場合がある。

 

 だからまた店に行って、野菜でも「ほうれん草」や「にんじん」などもあって必要な成分がとれることを言って

 

「これや」

 

と言うと

 

「なんや、知っている、知ってる。」

 

ということになった。

 

   手話通訳者は
  ことばの意味や概念や

       その内容を充分理解しているのであろうか

 

 以上のことは、昔々の話ではない。つい最近の話である。


  運動不足だからもっと歩きなさい、「骨粗鬆症」「ジャコ」「いわし」のメモなどは、ろうあ者に「伝えた」ということにすぎない。

 

 一時期、手話通訳は。情報保障と言われた。

 だが、そのようにいう手話通訳者は、ことばの意味や概念やその内容を充分理解しているのであろうか。

 

 日本手話と日本の手話とは意味が全く違う。

 

 第一言語第二言語とは意味が全く違う。

 

 ここでは情報提供という手話通訳者の人々に重大な問題を出しておきたい。

 

 情報とは、あることがらについてのしらせ、判断を下したり行動を起こしたりするために必要な、種々の媒体を介しての知識、ということで言うことであって情報を提供された側に判断と行動が求められることになるのである。

   

  「伝えた」だけ それが「情報提供」

 

 ようするに「伝えた」だけなのである。

 

 事例の場合、手話通訳が行われたが、手話通訳された側が、運動不足だからもっと歩きなさい、「骨粗鬆症」「ジャコ」「いわし」を知ったのにすぎない。手話通訳は知らせるだけ、情報提供するだけで終始してはいないだろうか。

 

 「毎日買い物に行っている店、あそこまで行って帰ってきたら1㎞。それだけ毎日歩くだけでも運動になるんやで。」店に行って、野菜でも「ほうれん草」や「にんじん」などもあって必要な成分がとれることを話をすることは、手話通訳の仕事として理解されていない。

 

 手話通訳がなければ、命に関わるといいながら、命の危険すら引き起こすことが行われていないだろうか。

 

        手話通訳はろうあ者のためにある

 

 手話通訳は、「情報を熟知している人のことば」をろうあ者に伝えるだけではなく、ろうあ者が理解出来ることが一番大切なことである。

 なぜなら、手話通訳はろうあ者のためにあるからである。

 

 病院に行って、医者から言われたことやメモの内容がろうあ者に伝わっているのかどうか、ろうあ者から質問出来る保障された時間があるかどうか。

 時間的制約があるならば、病院の待ち時間や時間を作ってろうあ者と話をする。


 双方向のコミュニケーションが、(コミュニケーションにはそのような概念が含まれている)が、手話通訳の必須条件であることが消されてはいないだろうか。

     

    手話ですべてが通じ合えるわけでは決してない

 

 その意味では、画一的お仕着せの手話通訳で問題は済まない。

 地域に根ざしたろうあ者の人々と暮らしを「一(いつ)」にする手話通訳者の存在は非常に大切なことなのである。

 

  京都では、野菜と白菜を同じような手話で表現する場合がある。

 だからまた店に行って、野菜でも「ほうれん草」や「にんじん」などもあって必要な成分がとれること。このことの大切さは、強調しても強調しすぎることはない。

 

 なんでも、手話表現しなければならないとむやみやたらに「なんでも手話」をする傾向があるが、「あれ」「それ」「これ」と具体物を示して、通じ合えることが大切なのである。

 

 その意味では、手話通訳する場合は豊富な知識とともに一番身近でわかりやすい手話通訳をする創造性が前提となる。

 

  野菜屋さんや魚屋さんに行って、知らせてコミュニケーションをすすめることは、手話通訳の仕事の枠外におかれていることが多いが、それで手話通訳がなされたということになるのだろうか。

 

 なんでも、手指さえ動かせば手話であり、なんでも手話通訳出来る、手話通訳をしたという時代は「現代の流行」としていて、いいのだろうか。