最近の手話通訳事情からの再検証を考える
たいした病気ではありませんからね 大きな病気ではありません
事例 7-4
病院でろうあ者が医者から、
「大丈夫ですよ。たいした病気ではありませんからね。」
と言われた。
これに対して手話通訳者は、
「大丈夫、大きな病気ではありません。」
と手話通訳した。
耳が聞こえないからバカにしている
驚いた顔をするろうあ者を見て、手話通訳者はあわてて
「重い病気ではありません、すぐ治ります。」
と手話通訳した。
するとろうあ者は、
「えっ、そんなに重くて悪いのですか。」
と聞き返した。
するとまた手話通訳者は、
「あっ、いやいや、軽い病気ですから」
と手話通訳。
「こんなにしんどいのに」
と、さらに聞き返す。
「大丈夫、だれでもなる軽い病気ですから、すぐに治ります。」
との返事。
ろうあ者は「耳が聞こえないからバカにしている。」と怒って帰ってしまった。
たいした病気 大きな病気
「大丈夫ですよ、たいした病気ではありませんから」と「 大丈夫、大きな病気ではありません」と手話を見入るろうあ者にとっては、大きな違いが出てくる。
「たいした病気ではありませんから」を「大きな病気ではありません」と手話通訳されても( こんなにしんどいのに )という気持ちで病院に行っているろうあ者にとっては、「大きな病気」でないとしても「小さな病気」であっても非常に心配は残る。
その気持ちが手話通訳者に推し量れていないことが解る。
だから結果的に、ろうあ者は「耳が聞こえないからバカにしている。」と怒って帰ってしまったのである。
「たいした病気でない」と「大きな病気ではない」とでは手話表現が異なる。
「心配・いりません」とまず手話通訳すればいいのにとも思える。
「大きな」がろうあ者の眼には、まず飛び込んできて、不安が増すかも知れないという気配りがなく、ろうあ者のようすを見て慌てて「あっ、いやいや、軽い病気ですから」と言っている。
手話通訳の仕事を「逸脱」
これでは、手話通訳の仕事を「逸脱している」と思われても仕方がないとも考えられる。
ろうあ者の「えっ、そんなに重くて悪いのですか。」と言う質問をなぜ医者に投げかけて、医者のことばを手話通訳しなかったのかが問題であろう。
それをしないで「大丈夫、だれでもなる軽い病気ですから、すぐに治ります。」と話をする。
その場で言いつくろっていることをろうあ者は感性で受けとめて、おかしい、と思い信頼出来る手話通訳に話をしたからこのことが解ったのである。
医療側に知らせなければ受け入れ体制は充実しない
1960年代以前は、ろうあ者が病院で受診することも手話通訳が同行することもほとんど否定される時代である。
今日は、医療の側のほうが障害者医療に積極的になっていることも多い。
まさに考えることすら出来なかった時代を迎えているからこそ、ろうあ者がどう受けとめて、どう心配しているのかを誤解も含めて医療側に知らせなければ受け入れ体制は、充実しないだろう。
「大丈夫、だれでもなる軽い病気ですから、すぐに治ります。」
この言葉は、よく医者から言われるが、聞いている側の理解程度はさまざまなのが実情ではないだろうか。
不安を抱えているろうあ者に手話通訳者が「説得」してはならないのである。
許されない 手指さえ動かせば、それが手話
手話をしているから手話通訳出来る。
手話をしているから聞こえない人々のことを理解している。
などなどマスコミも最近さかんに報道し、何も知らない人はそのまま受けとめていることがよくある。
最近、英語を日本の手話にする時全く異なった表現をしていたり、希望とこれから、緊張、子どもの手話が全く違った表現になっていても手話で記者会見したとマスコミが報道する。
手話とは、手指だけ動かしていればいいという誤解をマスコミがひろげているようにも思える。
また、手話が上手だといわれている人が、「雨が降ってきた」を胸より下で「雨」「降る」としていたが、天から雨のようすを見ていたのか、と問いたくなる表現をしていた。
雨が降るのは、眼よりうえから降る表現が普通の場合である。
手指さえ動かせば、それが手話であり、手話通訳であるかのような理解のひろがりは許されない。