ほんとうに手話通訳の内容を考えているのだろうか
事例を述べてきたが、これらに共通するものは、手話通訳の場面とその前後で手話通訳が非常に限定されたものか、主観的に理解された限定の範囲で行われていることである。
それは、「手話通訳者は、『手話通訳以外』」の援助作業をしてはいけない」とする傾向である。
これは、ほんとうに手話通訳の内容を考えているのだろうか。
また手話通訳の実際に基づいた上で考えられ、整理された考えなのだろうか。はなはだ疑問である。
手話や手話通訳をぶっぎりにして
その連関を志向しない傾向
交通という言葉がある。
この言葉を列車などこととして理解する人も多い。
だが、交通とはもともと、人のゆきき、ゆきかよい、人や物が物理的に行き交う、などなどとして使われてきた。
人のゆきき、ゆきかい、このことが手話通訳の基本として考えられているだろうか。
いや、このことは最も大切な人間的営みなのである。
「読み取り通訳」「聞き取り通訳」の問題点は、すでに幾度も述べてきた。
手話や手話通訳をぶっぎりにして、その連関を志向しない傾向は年々強まっているように思えてならない。
手話通訳が時間で切り売り
手話通訳が、「時間で切り売りされている現状」では、1時間の手話通訳、30分の手話通訳をしたからその「報酬はいくら」とされている現状が人間性を基本にした手話通訳にしているのかも知れないが、そこにはとんでもない落とし穴と非人間性がある。