手話 と 手話通訳

京都の手話通訳者の取り組みと研究の中からの伝承と教訓をみなさまに提起します。戦前戦後の苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを決して忘れることはなく。

さらなる手話通訳の発展のために 日本手話や音声対応手話などの主張をする人々の「ことばの装飾」はあるが、「論理」と「根拠」はない

 2006年12月から手話通訳の成り立ちとその発展の基礎的考えを明らかにし、多くの関係者に問題提起して今後の手話通訳の方向に一定寄与しようということになった。 


 そのため基本骨子を考えたが、基本骨子が多岐に及んだ。

 ろう教育と手話の成立と導入・口話法と手話など多くを割愛し、極めて不充分ながら批判をいただくこととした。

 

 あらゆる角度から検討を加えてきたからこそ詳しく述べることが出来るとも言える。

 

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  現在の手話通訳者が理解出来るかどうか正直不安


 現在では想像できないほど多くの事実と想定を論議してきた。

 その時間は膨大であった。

 

 このことは、手話通訳の基礎をつくる上で重要なことであったが、はたしてあれだけの論議を現在の手話通訳者が理解出来るかどうか、正直言って不安である。

 

 かっては、手話や手話通訳は自由に、信頼して、学習して、経験を独り占めにしないで、「みんなの財産」にして行くことなどなどあらゆることが当然のこととして考えられてきた。

 

 そこには一切の上下関係はなかった、またどんな肩書きも不要であった。

 

  日本手話や音声対応手話などの主張をする人々の
    「論理」と「根拠」は見いだせなかった

 

 これまでの文章を読まれた方は信じがたい「事実」と文章を目にするかもしれない。

 

 それらに対する意見と疑問は、ぜひコメントとしてよせていただきたい。

  最近、「新たな問題」?も感じられてので、これからこの問題について述べていきたい。

 

 特に日本手話や音声対応手話などの主張をする人々のその「論理」と「根拠」を調べてみたが、その「論理」と「根拠」は見いだせなかった。

 

 結論から言えば「ことばの装飾」はあるが、「論理」と「根拠」はないと考えるべきだろう。

 

 だが、その「ことば」だけが一人歩きしている。そのことに疑問を投げかける人々に「問答無用」と言わんばかりの「ことば」を浴びせかけている傾向をは少なくない。

 

 ろうあ者の被爆体験から学び

   手話と手話通訳の方向を考えるために

 

 主張をされるなら、それに対する批判や意見を傾聴してキチンと主張されるべきだろうと思うが、その流れが激突してひとつのよりよい方向に流れて行くことは考えられない現在になっているように思える。

 

 そこで、長崎で営々として取り組まれているろうあ者の被爆体験から学び、手話と手話通訳の方向を考えるために特別投稿を掲載してもらうこととした。