実証されない 「日本手話という日本語とは異なる言語」の比較研究
手話学入門として神谷昌明 国立豊田高専教授 (元日本手話学会理事、元豊田市手話奉仕員))は、
木村晴美さん(NHK「みんなの手話」元講師)や市田泰弘(日本手話学会理事)の「日本手話」はろう者の母語であるということです。」「市田さん、木村さんの言葉を借りるならば、ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者(minority)である。」と定義することができます、
と同調して述べている。
それならば、「日本手話という、日本語とは異なる言語」の比較研究の実証を示すべきだろう。
神谷昌明氏は。木村晴美、市田泰弘主張を研究成果で裏付けなければ、ただ他の人が言っているということでしかない。
このような単純な「言語を論じ」ていいのだろうかと思う。
隔絶された世界で活きてきたように
描き出す 非人道
音声表現としての音声言語と視覚表現としての手話を「日本語」・「日本手話」と単純に「論じる」が、論じる土台が異なっている。
たしかに、日本では手話によるコミュニケーションは音声言語によるコミュニケーションと大きく異なっている。
だが、すべてがすべて異なっていたのかと言えばそうとは言い切れないこともある。
なぜならろうあ者も社会の一員として暮らしてきたからである。
神谷昌明氏は、ろうあ者が日本の中で隔絶された世界で活きてきたように描き出す。
だから「ろう文化」(Deaf culture)も肯定する。
神谷昌明氏は「言語学」や「手話学」
が一般化されているかのように
さらに短絡的なのは、
ろう者は、日本手話を話す言語的少数者と定義しましたが、この定義などに対応させて、「健聴者」のことを「聴者」と呼びます。
今までの「聴覚障害者」と「健聴者」という二分法は、病理学的な区分(障害があるかどうか)です。言語学や手話学では、このような名称は用いず、「ろう者」と「聴者」と呼びます。
とまで言い切る。
言語学や手話学では、とするのは、神谷昌明氏の言う言語学や手話学であって、通常もしくは専門研究全般での言語学ではないだろう。
自らの「主張」を「普遍的主張」にして「論拠なき論拠」を無謀に投げかけているとしか思えない。
はっきり区分できないのが
現状とまで書くが
ともかく、曖昧で意味不明なことを英語の一表現で「権威」づけるが、「中間型手話」では、
聴者の多くは日本語対応手話になっていますが、所々、日本手話的な表現が見られます。一方、ろう者も、今までの手話サークル(日本語対応手話が主流)や口話法などの影響でしょうか、彼らの日本手話の中にも、日本語対応手話が見られます。しかしながら、何が「日本手話」で、何が「中間型手話」であるのかはっきり区分できないのが現状です。
と書き、何が「日本手話」で、何が「中間型手話」であるのかはっきり区分できないのが現状とまで書く。
無理強いして「日本手話」と
「日本語対応手話」区別しようとする
このことは、神谷昌明氏の言う言語学や手話学の概念の曖昧さはもちろん無理強いして「日本手話」と「日本語対応手話」区別しようとするところがあり、その「論拠」が破綻していることを自ら認めているのに、認めようとしない非科学性があると言っていいだろう。
情緒的に手話を述べるのは
手話学術研究とは言えない
手話のことを学術研究しているように述べながらも、情緒的に手話を述べるのは手話学術研究とは言えないだろう。
今日、ろうあ者や聴覚障害者が手話表現する場合、日本手話とか日本語対応手話と「線引き」する必要がどこにあるのだろうか。
もともと線引きできない物を線引きすること自体が、誤りなのである。
ろう者は日本の音声言語を獲得出来ない」 とする決めつけが存在
現に、神谷昌明氏は、ろう者も日本手話の中に日本語対応手話を使っていることを「口話法などの影響でしょうか」としか言えないのである。
そこには、「ろう者は日本の音声言語を獲得出来ない」とする決めつけが存在している。
神谷昌明氏の言う「聴者」のほうが「日本の音声言語を獲得出来ていない」という近年の状況を分析し、「ろう者」と比較する考えは毛頭ないのだろう。
このような飾り立てられた「言語学」なるものが、ろうあ者や聴覚障害者のコミュニケーションをさらに豊かにし、多くの人々と暮らす社会の中で活きることが広がるとは到底思えない。