手話 と 手話通訳

京都の手話通訳者の取り組みと研究の中からの伝承と教訓をみなさまに提起します。戦前戦後の苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを決して忘れることはなく。

ろうあ者の人々の叫び 暮らし そして人間性と手話 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ 

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(特別寄稿) 再録・編集
原爆を見た聞こえない人々から学ぶ 佐瀬駿介

 2000年8月22日から2003年2月15日まで全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)を再録・編集して公表してほしいとの要望に応えて。

 

 私のつたない一文が、長崎の被爆ろうあ者の気持ちやその家族を理解する一助にになればこれほどうれしいことはない。

 なお、「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)で証言されていくだださったすべて人々が、自分たちの体験を広く広めてほしい。そのため事実の証言として実名で記載を続け、自分たちのことをみんなのことを広めててほしいと言われた。

 そのため、以下掲載する方々はイニシャルで表記するのではなく実名で書かさせていただく。

 

    原爆投下で無残に破壊された

 元聾学校のグランドの情景とともに

 

 2000年8月1日。私は、長崎市の診療所に入院して「けいわん」治療を受けて、少し体調が快復しつつある、と少し心が和らぎつつ待合室のイスにもたれかいた。

 と、どこかで見たことのある聞こえない老人がいる。過去の記憶をたどるが、頭の中にはどこかで会った、という回答しか返ってこなかった。

 手話通訳者から「この人とは会ってないよ。写真で見ただけでしょう。」と言われれば、そうかなあ、と意識が混濁したままだった。

 8月9日まで居て、長崎被爆者祈念集会においで、おいで、とその聞こえない老人に誘われた。

 が、体力を回復させることが精一杯の私にとって長崎に残って9日まで居るとは言えなかった。

 帰宅して書棚から「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)をパラパラと見っめた。
 
あの老人は、田崎道枝さんだ。

 と分かると田崎さんと初めて会った原爆投下で無残に破壊された元聾学校のグランドの情景が鮮明に私に迫ってきた。

 長崎から当時手話通訳問題研究編集局長だった私に送られてくるろうあ者の被爆体験を中心とした「聞き書き」の原稿と写真を何度見て考え込んだことだろうか。

 何度長崎の全通研の仲間と連絡を取り合ったことだろうか。

 今では信じられない、京都と長崎という途方もない距離を手紙と電話が行き交った。

      読み続けてきた原稿を想起して

 ある日。

 私は、原稿と電話のやりとりだけでは、どうしても長崎からの原稿に流れるなにかが受け止められない、と心底から考えるようになりどうしても長崎を訪れようと考えた。

気がつけば私は長崎市内に居た。

 ろうあ協会の結城さんに、爆心地を中心に案内してもらった。

 カメラマンも同行してもらった。私は、長崎ろうあ協会の結城さんの話を聞く度に「あそこ撮って。ここ撮って。」と言い続けた。

 今まで読み続けてきた原稿を想起して、そのイメージと重なる写真が必要だった。

   

 原爆で何もかも吹っ飛んだけれどこれとあれとが残っている

 

 長崎は坂ばっかりだ、と言えばみんなはどう答えるだろう。

 急な坂もあればだらだらとした坂もある。

 優しい坂もあれば囁き坂もある。

 ともかく上り下りを繰り返して、結城さんに連れられてきたところは少し大きな空き地だった。

 ここは元聾学校のグランドだ。

 今は、石垣しか残っていない上には立派なろう学校の建物が建っていた。

 大浦天主堂も彼処に見えていた。

 今この足下にあるのが校舎からグランドまでの階段。

 原爆で何もかも吹っ飛んだけれど、これとあれとが残っている、と結城さんの手話は滑らかだった。