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手話と手話通訳

京都の手話通訳者の取り組みと研究の中からの伝承と教訓をみなさまに提起します。戦前戦後の苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを決して忘れることはなく。

赤レンガのわずかな隙間から次々とのびる捕虜の手 戦時下でも人間平等の炎を燃やし続けた どんなに迫害されても 

 

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)を再録・編集して公表してほしいとの要望に応えて。

 

       伸びる手を見てすべてを悟る

 

 出口武雄さんの話は8月9日の事から始まり、一転。自分が生まれた頃の話になる。

 

 生まれたときから耳が聞こえなかった出口さん。
 大学病院での不治の診断。
 祈りの日々。
 でも、出口さんは聞こえることはなかった。

 

 ろう学校への道すがら、後々原爆投下で問題になる連合軍捕虜収容所の前を通っての通学。

 

 赤レンガのわずかな隙間から 次々とのびる捕虜の手。

 ひもじさ。苦悩。助けの叫び。

 外国人であっても顔が見えなくても、言葉ではなく伸びる手を見てすべてを悟った出口。
 
     踏みにじられた人々へ

   「無言」の連帯の手

 

 叱られ、どやしつけたれ、体罰を受けることが分かっていても学校での食事を切りつめるか、仲間のものをかき集めて、乾パンを捕虜に手渡す。

 

 赤レンガから伸び続ける手は、自分たちの置かれた境遇に似たものがあったのだろうか。

 

 幼心にそう感じていたのだろうか。

 

 禁断の捕虜への食料をあえて乗り越えて手渡す出口さんは、踏みにじられた人々へ「無言」の連帯の手を差し伸べていた。

 あの時代、どれほど多くの人々が、同じ人間として人々に人としての証を感じていても、行動に移せなかった。

  それを知れば出口さんの行動にすべてが見えて輝いてくる。

 

 捕虜収容所にはオランダ人が居たと知っていた。

 

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     少しでも空腹を満たして

    ほしかった、ときっと

 

  2009年4月頃、マスコミは収容所にいたオランダ兵の迫害と被爆を報道しはじめた。だが、捕虜収容所にいた連合軍の死者は少ないとも言われている。

 制空権を握っていたアメリカは、捕虜収容所をクリアー出来るように原爆を投下したともいう調査報告もある。

 

 だが、加害者としての日本は描かれても出口さんのような人々のことは調べもせずに報道していた。

 マスコミに出口さんらのことを伝えたが完全に無視された。

 

 加害と被害という対立関係でしか考えない。

 菊池さんや出口さんのことは報道すらされもしなかったが、二人とも生きていたらきっとこう言うと思う。

 

 私も空腹だったけれど、あの人たちはもっと酷かった。
 ただ少しでも空腹を満たしてほしかっただけ、と。

 

      日蘭交流400年記念の時期

    の前だったからこそ

 

 長崎は、江戸時代オランダから西洋の文化が伝わり日本国中に広まった地。

 

 レンガの壁の向こうに居たオランダ人は、まさか自分の手に乾パンを手渡しているのは、禁断を犯してまで聞こえないろう学校の生徒が手渡しているとは思わなかっただろう。

 

 証言は、日蘭交流400年記念の時期の前だったからこそオランダの人々にもこの事を伝えたいと思った。

 

 出口さんの証言のほんの一部を知っても、彼のヒューマニズムが垣間見える。

 

 その出口さんには、どんどんと戦時下の様子が押し寄せる。

   

    血走った眼が弾痕の後を追う

 

 機銃弾が走り、いのち拾いをした様子は実にリアル。

 出口さんの伏せた身体の両脇をぷすぷすと弾丸が穴をあけて通りすぎ、恐怖で引きつる顔から血が流れ、血走った眼が弾痕の後を追う姿が見えてくる。出口さんは、九死に一生を得る。

 

   聞こえない子供の教育は

 極めて軽んじられ

1945年。

  ろう学校は兵器工場に変えられ

 

 軍事のためには、聞こえない子供の教育は極めて軽んじられていた。

 京都のろう学校も同時期頃、同じように軍事工場とされた。私は、このことを多くのろうあ者から聴いた。

 

 私は、いつ、いかなる時代も、聞こえないからこそよけい重厚な教育が行われるべきであると思う。

 

 日本の現実は、そうではなかった。

 

 戦時下であるからということで、ろう学校やろう教育が「疎開」させられて行く。

 

       ろう学校跡地に平和の記念碑を

 

 長崎だけではなく京都でも同様なことが行われたばかりか、他府県でも統一的に行われていることを考えればまさに「国策」として強行されたとしか考えようがない。

 

 つい最近まで学んでいた想いで多きろう学校が、戦争のための兵器工場にさせられ、そこで働く。

 

 その「変わり目」の時に出口さんが居た。

 出口さんたちろう学校の生徒の中にはどんな想いが交錯したことだろうか。

 さらに、その4ヶ月後。想いで多きろう学校のまさに上で原爆が炸裂する。

 ろう教育は、聞こえない人々の教育というだけでなく、平和のシンボルとしてもどれだけ大切なものであったかを、暗に出口さんたちは繰り返し、繰り返し私たちに語ってくれているのである。

 

 全通研長崎支部の西川研氏は、ろうあ者の忘れられない原爆が炸裂した下にあった上野町のろう学校跡地に「平和の記念碑を建設」する取組をはじめることを約束してくれた。今だ実現していないけれど。


 このことを私たち手話を学んだ人やろうあ者だけのこととしないで、広く国民に世界に訴えていきたいと「原爆を見た聞こえない人々」を読むたびに叫びたくなる衝動は抑えきれない。