(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)を再録・編集して公表してほしいとの要望に応えて。
被爆者の中にある複雑な気持ち
を乗り越えた喜びの連絡
2003年8月9日少し前の日。
喜びの電話が飛び込んできた。
やっと、やっと、長い年月がかかったけれど8月9日の長崎平和祈念式典で「平和への誓い」を読み上げる被爆者代表としてろうあ者の山崎栄子さん(当時76歳)が決まった。
という知らせだった。
思えば長い道のりだった。
長崎で被爆したろうあ者がいるという事実を記録する。また被爆者の中にある複雑な気持ちもそれなりに解るが、それを乗り越えたみんなの努力がうれしかった。
それは単なる記録ではなく、手話学習でもあり、ろうあ者との連帯でもあり、障害者も被爆した、それを見た、などなどの歴史の一ページに少しでも事実を残し、伝承していこうということでもあった。
構想した時は、誰もそれが実現するとは思っていなかった。
今だかすべて成し遂げたとは言えない状況であるが、その第一歩を踏み出す。
最後に自分も
証言させてほしい
ことばだけを残して
この世を去ってしまった
そのことを大歓迎してくれたのが、長崎ろうあ福祉協会会長の山崎さんだった。
彼は、みんなの被爆体験を記録を優先してほしい。最後に自分も証言させてほしいとにこやかに語っていた。
惜しみない援助と拍手をしてくれていたが、最後に自分も証言させてほしい、ということばだけを残してこの世を去ってしまった。
その奥さんの山崎栄子さんが、手話で被爆体験を語って平和を訴える。
きっと、この時、はじめて被爆したろうあ者のことが手話通訳者の人々の大きな関心を持たれ、日本中で話題になるだろう。
出口さんの平和祈念式典に行きたくない、という気持ちを根底から覆すことに大きな喜びを感じた。
平和祈念式典参加者が
食い入るように見つめ 聴いていた姿
当日、食い入るようにTVを見た。
山崎栄子さんの身体中からの表現に悲惨さが満ちあふれていたものの、こころから訴えられることに喜びの表情を見た。
同時に平和祈念式典参加者が、山崎栄子さんの身体全体から飛び出す手話表現と手話通訳者の通訳の声を食い入るように見つめ、聴いていた姿に大きな感動を覚えた。
すこし、今までのことが報いられるようで安堵する気持ちも芽生えていたことがあった。
NHK長崎に抗議が殺到したが
その背景を考えると空しさが
たしかに、山崎栄子さんの訴えは大反響を呼んだ。
でも、私にとって非常にショックなことが押し寄せてきた。
当時の放映で、NHK長崎に抗議が殺到したということである。
平和祈念式典の山崎栄子さんが訴えていたが、その場面で会場にいる人々をTVで映された。
そのため、山崎栄子さんの手話が途中で見えなくなって途絶えたではないか、という抗議がNHK長崎に集中したという。
その抗議が一番多かったのが手話通訳者からだったと言うからさらに驚いた。
山崎さんの訴えを、カメラはぐるりと回り、一瞬山崎さんの背中から会場の人々の姿をとらえ、再び山崎さんを映した。
その一瞬で山崎さんの話が分からなくなったと言うのである。
でも、私はそうは思わなかった。
「原爆を見た聞こえない人々」
の山崎栄子さんの証言を
読んでいたら解ったはずだ!!
京都でこの話をすると、少なくない手話通訳者は、あれはおかしい、と感情的に憤慨し続けた。
そこで、私は
山崎さんが映らなかった一瞬、何を言っているかは「原爆を見た聞こえない人々」の山崎栄子さんの証言を読んでいたら解ったはずだ。
それより、初めて障害者が被爆したことを参加者の前で話、それを見入る人々の姿が全体の臨場感を伝えていてよかったのではないか、とも言ったが、手話、手話と感情的になり受け入れられない。
そこで、毎年放映される長崎の平和祈念式典には、手話通訳が映像の中に入っていない。それを知っていたの、と聞いたら無言だった。
手話を学ぶ人々は
一過性 その時 その時だけで
過ぎ去る考えで終始していいのだろうか
抗議の嵐に晒されたNHKのデレクターが被爆ろうあ者のドキュメンタリーを創るために京都を訪れていることも知らないでいた。
長期にわたる長崎のろうあ者と共に記録されたとり組みを、一過性にしかとらえられていないことを残念に思った。
被爆ろうあ者のドキュメンタリーは何度も放映されていた。
それすらも知らない空しさ。
手話を学ぶ人々は、一過性、その時、その時だけで過ぎ去る考えで終始していいのだろうかと思いつつ、手話通訳者の中で「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)がほとんど読まれていないことを知って落胆した。
手話通訳者には、学ぶ、調べる、読み書きは必須条件である。