手話 と 手話通訳

京都の手話通訳者の取り組みと研究の中からの伝承と教訓をみなさまに提起します。戦前戦後の苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを決して忘れることはなく。

手話表現の極致 震えを遙かに通り越して感覚や感情も失われた地獄

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  (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)を再録・編集して公表してほしいとの要望に応えて。

 

   苦悩を語る時の表情と素顔

 

 山崎栄子さんの素顔を撮った写真を見て驚いた。

 かって私の手元に送られてきた山崎栄子さんの写真とあまりにも違っていたからである。

 

 私は、長崎に幾度となく行ったが山崎栄子さんに出会ったことは全くなかった。

 ご主人は、ろうあ協会の会長をしていて、私がろうあ者の被爆体験を記録したいと提案したとき大賛成してくれそれから幾度も会って相談した。山崎栄子さんと出合う機会はなかった。

 

 山崎栄子さんが語った証言は文中にあるが、「原爆を見た聞こえない人々」の扉の写真と

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文中の写真を見て、同一人物であることが解る人はどれくらい居るだろうか。

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    脳天を打って知らされた

       素顔と修羅のような顔の間


「劇的変化」

 

 ここに山崎栄子さんの言いたいことのすべてがある。

 山崎栄子さんの素顔と修羅のような顔の間が語る。
 脳天を打って知らされた。

 

 「原爆を見た聞こえない人々」で得た強い印象のひとつである。

 

    家族の運命も決定づけた

山崎さんのことを案じる母と父の判断

 

 山崎さん10歳。

 

 物心が激しく変動する頃、戦争に脅える哀しい生活を余儀なくされる。

 まさに爆心地となるその場所で山崎さんの生活があり、家族との暮らしがあった。

 お母さんは、耳の聞こえない山崎さんを思いはかって時津の親類へ疎開することを考える。

 父は、「爆弾の落ちるときはどこでん同じやっけん行かんでもよか」と言う。

 が、この山崎さんのことを案じる母と父の判断が、その後の山崎さんの運命も、家族の運命も決定づける。

 

   根底から破壊された  爆弾の光りだ

 と思い込んでいたいたこと

 

 運命の8月。

 

 山崎さんの家族は、1日から疎開先の時津に家を造り始める。

 8月8日には、家が半分ほど出来ていたが、病気で寝ていた山崎さんの姉さんの居る自宅に母は戻る。

 

 9日。母は、仮設の家に11時前に戻ってくる。

 

 姉の病気を案じていて母に姉のようすをたずねた。

 その瞬間、眼に飛び込んだのは、オレンジの光線の巨大な束だった。

 家族3人はその光りはだだの爆弾の光りだと思い込んでいた。

 

 翌日、道の尾。

 爆弾の光りだと思い込んでいたいたことが根底から破壊される。

 

    地獄だけが待ち受けている

 

 3人を待ち受けていたのは、地獄でしかなかった。

 山崎さんもまた、菊池さんが爆心地に向かった同じ時間帯に母と父と共に道の尾から爆心地に向かう。

 

 浦上川の草むらにいた人々の姿。

 

「顔が苦痛でゆがでいる」

 

「水を飲みたくても……」

 

 その人々の姿を自分の身に置き換えて山崎さんは表現する。

 

 このことのすべては、2枚の写真に写し取られている。

 

 山崎さんと同じ年齢の女の子の姿。母は悲しみの涙。

 

 足の肉がはげ落ちてぶるぶる震えている人の姿。

 

 真っ黒に焼けこげた女性と赤い布団が目に飛び込んでくる。

 

 3人は涙を流しながら手を合わせ歩み続ける。

 

 これの表現も一枚の写真に写し取られている。

 

 人間が死ぬにしても生きるにしてもあまりにも惨い情景を「踏み越えて」歩く3人の足下は、震えを遙かに通り越して感覚や感情も失われていたことだろう。

 

 さらにその悲惨な人々の死の中でさらにひどい死体を見る。

 

 原子爆弾で弓形に反り返って死んだ死体。

 

 さらにさらに恐怖心が全身を貫く。

 


 言うまでもないことだろう。
 手話は、手指の動きで表現されるのではないことを。

 そうして、絶大な信頼関係がしっかりあったから映像を撮れせていただけたこと、またカメラを意識しないでありったけ表現していただいたことを。