(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて。
聞こえない人の運命を左右する
教育を受ける機会
「原爆を見た聞こえない人々」の編集をしていた時、後山都志子さんの証言の最初の小見出しに「うち勉強すかんかったけん嬉しかった」と書き込んだときこの文字の重さは計り知れななかった。
聞こえない人々の「学習歴」という表現で書いてきたが、私は聞こえない人々にとっては、学習する機会が保障され、その中で学ぶことは聞こえる人々の数倍の意味を持つ。
その後の聞こえない人の運命を左右するとさえ考えた。
後山さんは、まさに終戦まっただ中のろう学校に通うが、空襲警報や戦時下の中で系統的な学習が受けられなかった。
そのためだろう、勉強好かんやったけん、と言っている。
勉強好かんやったけん、の言葉の意味を単純に理解してはならない。
この言葉の意味は人生の綾が織り込められていて実に複雑であり、矛盾と揚棄に満ちている。
また学ぶことの人間のいのちとともに切々と伝わってくる。
ろう学校に通えたかどうかで
その人のその後の
人生が運命づけられた
こう書くとこの文章を読んでいる人はあまりにも意味不明の言葉の投げ込みだ、と思い戸惑うかも知れない。
私は、聞こえない人々が学ぶことの重大な意味と人生の関わりについての漠然とした概念を抱きつつ検討研究を積み重ねてきたがまだ自分の納得できる到達点に達していない。
あえて少し、私の考えを述べさせていただきたい。
実体験として感じられないままろう学校に通った後山さん。
でも、それは学校に通わせてもらえる至福のことだった。
学校の通えるのはあたりまえのこととして捉えている若い人々に何万回説明しても、どれほどの重みと共感が得られることだろうか。
後山さんの時代それ以前の時代。
すなわち戦後の一時期以降から遡ると、聞こえない人々がろう学校に通えたかどうかで、その人のその後の人生が運命づけられた、と言っていい状況がある。
生涯を支え合う
聞こえない仲間集団との出会い
ともかくとしてこの時代は、聞こえない人々にとってろう学校に行くことは、単なる学んだという一言でだけではすまされない。
生涯を支え合う聞こえない仲間集団との出会い。このなによりも大切な人々。
社会で生き抜くための基礎的生活の確立。
職業的な技術の獲得。
長崎のろう学校でどのような教育がすすめられてきたのかは知らない。
だが、全国各地で後山さんと同時期やそれ以前の時代にろう学校に通った数多くの人々と話し合った経験から「勉強好かんかったけん嬉か」ということが共通して堰を切ったように話されたことは忘れられない。
ろう学校に行くことは
金のある無しに左右され
行けないことはいのちを削る労働
福岡県の田川市。
田川の炭坑で炭坑夫として働いていた聞こえない人々の身振り、手振りで、戦前の石炭の採掘に携わったことを聞いたことがある。
日本の基幹産業の石炭採掘という仕事にいのちがけで参加した聞こえない人々がいる、という事実を目の前にして私の思考は、エンジンを全開させた。
出会った人々の全員は、ろう学校に行った経験は皆無だった。
未就学。
戦前。田川市内を流れる遠賀川の向こうにある小倉ろう学校に行けたのは、ほんの数名で金持ち。
貧乏な聞こえない人は、ろう学校なんてとても望めなかったという話。
山を越えた向こうにある小倉のろう学校に行くことは、金のある無しに左右され、行けないことはいのちを削る労働が強要された。
出会った人は底抜けに陽気で生き生きしていた。
眼前で身振り、手振りで語ってくれる人々が、いのちがけで非人間的な労働につき、明日はなく今日しかない生活、を続けた聞こえない人々とはとても思えなかった。
もしも、この人々がろう学校に行っていたら炭坑での採掘の生活のことがもっと詳しく聞けるのに、と思う私の思考を寸断したものは、学校に行っていたらいのちを削る労働についていなかっただろうという複雑な思いだった。
「好かん」と「嬉か」は
同じ意味を持って伝わって
こう考えると、後山さんの言う「勉強好かん」の意味は、学ぶことが好かんでもなく、ろう学校に行くのが好かんでもないと理解できるのではないだろうか。
そうなると「好かん」と「嬉か」は、同じ意味を持って伝わってくる。
残された父と兄と後山さんの4人家族に、原爆が落ちる。その時もうひとりの兄はすでに死んでいた……。
大地のゆれ。
崩れる家。
しっかり繋ぎあった父の手が離れる。
父の手は瓦礫の中から後山さんの足を捉える。
無我夢中。
放心。
恐怖。
「原爆を見た聞こえない人々」に掲載されている後山さんの写真に写る表情がすべてを語る。