(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて
佐々木さんは、誇りに思った長崎盲唖学校を後に和裁の見習いの仕事に就く。
聞こえない人の人生は
従属させらた手に職を付けるために
聞こえない人々の男性の仕事としての和裁。
今日このようなことを話をしたとしても信じる人もいないだろう。
当時、「手に職を付ける」ということが聞こえない人々が生き抜く上では必須条件。
手に職を付けるために聞こえない人の人生は従属させらた。
この時代は遠い昔でない。
ついこのあいだの時代だった。
このは記憶に留めておくべきなのだ。
「手に職を付ける」ということは、良きにつけ、悪しきにつけ聞こえない人々の人生に重い重い足枷を架けてた。
この時代を理解せずして佐々木さんの「転職」は理解できない。
「男として生まれた以上、男らしい仕事」
この言葉の意味は、手に職をつけるために当時の社会では「女性」の仕事と決めつけられていた和裁の仕事からの「脱出」を意味していた。
薄暗がりの部屋で鉛の活字を一つ一つ拾い
漢字を覚え、読み、文章を知り
佐々木さんは文選工の道を選ぶ。
文選工。
原稿通りの活字を活字棚から一つ一つ探して、それを組み合わせて組み版をつくり印刷する。
街を歩いていてそういう光景を目にすることはなくなったが、「男はつらいよ」の寅さんの義理の弟の勤める会社のような印刷工場が日本のあちこちでかっては見られた。
薄暗がりの部屋で鉛の活字を一つ一つ拾い、原稿と照合しながら、漢字を覚え、読み、文章を知り学習していったのではないだろうか。
佐々木さんの口からひと言も述べられていないが、なぜか真摯に学びながら仕事を続ける佐々木さんの姿が眼前に浮かび上がる。
この時期、佐々木さんにとって仕事は辛いものがあっても生き甲斐と喜びと誇りに満ちたものであっただろう。
あらゆるものが、戦争のために
東京空襲。
心配した母からの手紙で佐々木さんは長崎に帰る。
文選工はやめて旋盤工になる。
道の尾園田鉄工所。
佐々木さんの証言で、この鉄工所は機関銃の弾を作っていたことがはじめて明らかにされる。
あらゆるものが、戦争のために準備され、駆り出された。
私は佐々木さんの証言と共通する一つのことを想い出さざるを得なかった。
一つの地名を表す手話表現の中に
戦争が色濃く残っている
関西で、尼崎(あまがさき)市を銃で手話表現されたことを知る人はほとんど居ないだろう。
でも、銃を作るために多くのろうあ者がかり出された反映としての尼崎の手話の意味を聞いて私は、愕然とした。
戦時中、関西でも多くの聞こえない人々は軍需工場で働いた。
尼崎の軍需工場は、集められた聞こえない人々の多さで突出していた。
だから、銃=尼崎という手話表現が戦後も使われていた。
一つの地名を表す手話表現の中に戦争が色濃く残っていて、私たちにリアルに迫ってくる。
その手話表現を消し去ることは、過去の聞こえない人々の歴史と苦悩の日々の生活をも消し去ることではないのかと考えてしまうこの頃である。
「日本手話」と言うなら
ろうあ者の「手話」を採り入れるべきはず
「日本手話」とか「日本語対応手話」とか、手話は「母語」などなどと主張する人々はそれでそれなりの「満足感」をもっているようである。
でも、「日本手話」と言うなら、音声に対応した手話というならろうあ者の歴史的生活の中で編み上げられてきた「手話」を採り入れるべきではないか。
今までなかった「新しく作られた手話」を声を出さないで表情を変化させることが「日本手話」としていることに苛立ち以上の感情を抱く。
それは、過去の聞こえない人々の歴史と苦悩の日々の生活をも消し去ることではないのか、と思うだけではなく聞こえない人々が活きる中で創りあげてきた手話表現を否定することでもあると思うからでもある。
時代とともに多様な手話表現が創造されてきた。
例えば、京都では、長崎の手話表現は、両手で舳先を現して造船を意味する人もいた。
造船と終点(長崎の終点は大浦駅で会ったため)を組み合わせた表現。
1970年代になると平和祈念碑の像の天を指すことと並行に手腕を延ばす表現が多く使われた。
広島は、安芸の宮島の鳥居を現すものであったことから、このことから京都のろうあ者者の中では長崎の原爆投下の印象のほうが強かったとも言える。
もちろん、京都には広島で原爆投下で全身大火傷を負い生き残った人々もいたが。