手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

手話通訳 とは何か を真剣に考えるべきと警鐘乱打が鳴らされている

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  特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 東メイ子メイ子さんは、5人姉弟の長女として生まれ、弟もを聞こえない環境の中で育った。

 

 石工だった父の肩をもんであげた、という話しをしているが、もうこの頃、お父さんは、職業病であるじん肺を抱え込んでいたのではないかと思われる。

 

  10歳の重要な時期に

 教育を受けることが踏みにじられて

 

 彼女にとって残念なことは、彼女が10歳の1945年に県立盲唖学校が、長崎市内から大村に疎開し、学校の建物が軍需工場になってしまうことだった。

 盲唖院学校が軍需工場にされ、遠方の大村では学校に通えなくなる。

 教育が軽んじられ基本的人権があらゆるところで踏みにじられる。

 10歳の時。この時期は人間発達でも重要な意味を持つ。

 

 田中昌人氏は、かって次のようなことを私に述べた。

 小学校低学年は、身長、体重、胸囲などが伸びてきて、自分にどんなに力が付いてきたかという力だめしができる時期。友だちとルールに基づいたさまざまなことをして、たとえばケンダマや縄跳びなどで、勝ったり負けたりしながら、第一次の自己客観視ができるようになる。 

 体重がこれだけ伸びた、身長が伸びた、だから走るのがこれだけ速くなった、
というふうに第一次の自己客観視をしつつ、自分が形成されていくところを計測可能なところでとらえて、自分に対する信頼性を持つようになる。

「自分が形成されていくところを計測可能なところでとらえて、自分に対する信頼性を持つ」ことの奥深い意味を東メイ子さんの証言から何度もかみしめてきた。

 それ故、わずか3年に満たない短い教育期間はその後の東メイ子さんの人生にもさまざまな影を落とすことになる重大な問題を思考する。

 人間発達にとって、7歳、8歳、9歳、10歳の学習期間は重大な意味を持っている。

 

   彼女は簡単なことばや

 家族の名前ぐらいしか書けない状況で
  ろう学校の教育を中断させられる

 

 東メイ子メイ子さんは、もんぺ姿に防空ずきんをかぶって弁当を学校に通っていた。

 カタカナでの単語学んで学習。(戦前はカタカナから文字を教える。このことの意味は多くあるが今回は述べない。)

 

 学校の校庭の畑の仕事。彼女は簡単なことばや家族の名前ぐらいしか書けない状況で、ろう学校の教育を中断させられてしまう。

 学校で学習にいそしむ東メイ子さんの真剣な眼差しが証言文の行間のそこここに読み取れる。             


 8月9日。

 原爆投下の時間を東メイ子メイ子さんは、10時か10時半頃と記憶している。
 この彼女の記憶を、長崎の人々は証言は証言としつつ課題を残しながらも彼女の証言を尊重しつつ、大切に記録しながらも事実との関係で(国の発表は11時2分)と文章化されていることに注視してほしい。

     事実認識の二つの間にあるものをめぐりながら

  事実認識の二つの間にあるものをめぐり、聞き手と東メイ子さんとの間で永い取り組みがあったことは充分想像できる。

 東メイ子さんに、原爆投下の時間を知ってもらうためこのことだけでも多くの時間がかかっただろうと思う。
 それでも、東メイ子んは、10時か10時半と思うといったのだ。

 以降の文章の中で、必ずしも書かれていないが、すでに東メイ子さんが証言している中で、彼女の「思い違い」と思われるところや「くいちがう」ところがあることが明らかにされている。

 が、しかし、それはそれで彼女と十分に話し合いながらも、それでも、そのように認識している彼女の気持ちを尊重する立場が、貫かれている。

 東メイ子さんの場合でも、このことを書くことになるが「原爆を見た聞こえない人々」のすべて証言の記録でもそのことが貫かれている。

 

    ヒューマニズムで貫かれた手話通訳

 

 私は、ここに戦前、戦後を通じて手話通訳が保障されてこなかった人々と共に人間性をさらに求めて行くヒューマニズムで貫かれた手話通訳があると思う。

 

 手話通訳は、ともすればテレビや集会などでの手話通訳が、人々の目にふれ「見える手話通訳」が注目され、それが手話通訳であると理解されていることが多い。

 

 だが、はたしてそれだけでいいのだろうか。

 

 手話通訳がそのことだけで理解されているとするならば、それは聞こえない人々の言いたい、理解したい、知りたいというさまざまなねがいや要求から手話通訳の保障がもとめられ、手話通訳が保障されてきたという基本的事項がないがしろにされているということにはならないだろうか、と一層強く思う気持ちは日々強くなる。

 

 一瞬 一日で なしえなかった手話通訳

 

 東メイ子さんだけでなく、戦後数十年して聞こえない人々が手話通訳者を通じて原爆投下という事実を知ったということは、手話通訳がなされたということなのである。

 

 東メイ子さんが、手話通訳者とともに時代を遡りつつ自らの体験を語り、自らの状況を知っていったとするならば、これはまさに手話通訳が保障されたということなのである。

 

 手話通訳はその場の同時通訳だけでない。

 

 時空を超えてることも手話通訳なのであり、手話通訳が可能であるということを、東メイ子さんの8月9日の記述のたった一行の中から読み取れるのである。