手話 と 手話通訳

京都の手話通訳者の取り組みと研究の中からの伝承と教訓をみなさまに提起します。戦前戦後の苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを決して忘れることはなく。

身体のすべてで表現する 地獄から逃げようとする人々の生きる、生き延びる本能

 

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて


 二人の姉妹徳永ツギノさん63歳、山崎芳江さん59歳の時、被爆体験が30年以上も前に証言た。

 

 二人の聞こえない4歳違いの姉妹が育ち、被爆し、そして現在までがそれぞれに語られながら、想いが、ひとつになる。

 

      いじめられた苦しく悲しい事実を背に
  盲唖学校中学部の2年まで進学 

 

 ツギノさんに教育をうけさせたいという親は、転居する。

 

 近所の子どもにいじめられた苦しく悲しい事実を背に、ツギノさんは盲唖学校中学部の2年まで進学するが病弱で中退し、和裁の住み込みで働く。

 

 芳江さんも、盲唖学校に入学し、雨の日を待ち焦がれるほど近所の子どものいじめにあい、中学部4年で卒業し家業を手伝う。

 

 父、兄の兵役。

 

 姉の満州行きという戦時下の生活。

 三人の姉妹は、母との四人暮らしを続ける。

 

    地獄から逃げようとする人々

の生きる 生き延びる本能

 

 8月9日。

 芳江さんは母と近所の人と薪拾い。

 

 三人は、背負った薪ごとはね飛ばされて、その後防空壕に避難。

 

 明るい日射しが突然黒く遮られた外を垣間見ながら耐え、外にでた芳江さんの見たものは……。 

 

 次々と倒れる人々。

 

 人間の姿を留めない姿。

 

 強烈な臭い。

 

 ひたすらその地獄から逃げようとする人々の生きる、生き延びる本能が芳江さんの脳裏に渦巻き続けていたのだろう。

 

   探り当てた    命を支えた防空壕

 

 命を支えた防空壕跡の写真が「原爆を見た聞こえない人々」の本に掲載されているが、確かめ確かめ記憶をたどって全通研長崎支部の人々と共にその場所を探り当てたことが、ここでも窺うことが出来る。

 

 家にひとりだけ残された昼食の準備をしていたツギノさん。その準備していた昼食の献立をありありと記憶している。

 

 地響き。

 傾いた家。

 

 木戸から見えた灰色に混ざる黄色い雲。

 倒れた柱時計。

 

 紙が舞い布団が飛び、煮炊きものは真っ黒な埃が被さる。

 

 それでも事態がわからず家の片付けをはじめたツギノさん。

 

 逃げる人々の姿を訝しがって母と妹を捜しに出かける。

 

 聞こえない条件の中でことの事態が一層理解出来なくされていたことを淡々と見ていたツギノさん。

 

 が、ツギノさんが見たのは衝撃的なショックで呆然とし続ける芳江さんだった。

 

 芳江さんは言いようもないショックを受け1週間何も食べることが出来なかったのである。

 

    聞こえないが故に

 看病できなかったことを悔やみ続け

 

 隣の家の息子さんが被爆して死ぬ様子。

 

 被爆した人々の火葬。焼けこげる死体の様子。

 

 すべてが見たまま身体すべてでリアルに語られ、それは消せない記憶として残って戦後を迎えていく。

 

 ツギノさんは戦後、夫を労働災害でなくし、土木作業の仕事で子どもを育てる。

 

 芳江さんもツギノさんと同様の仕事につくが、職場の人たちとの折り合いが悪かったようである。

 

 お母さんは、戦後29年して白血病で死ぬ。

 

 その後、お父さんもお母さんを追うがごとく死んでいく。

 

 聞こえないが故に看病できなかったことを悔やみ続ける。

 

 被爆以降も二人の哀しみは続いた。

 

 が、娘さんたちも協力し、励まし支え合ったこともよくわかる。