五十数年前の過去をわびる元いじめっ子の素直な気持ちへ(3)
(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて
白人と黒人の分離教育から分離を解消するためにつくりだされてきた教育の方法
インテグレーション(integration)
メインストリーミン(Mainstreaming)
日本では様々に解釈され評価されているが、教育のおけるインテグレーション(integration)もメインストリーミング(Mainstreaming)ももともとアメリカの白人と黒人の分離教育などから分離を解消するためにつくりだされてきた教育の方法だろう。
「教育で、分離したことなどを有機的に統合し指導する」「障害をもつ児童を通常の学級で一般の児童とともに教育する」
障害児を主流の健常者児童と同じ学校生活の中に」「互いに区別することなく社会生活を共にさせよう」
という前提に差異があり、その差異を解消しようという試みだった。
この試みということ自体が人間としての平等を前提にしていないのではないかと思える。
名称に改め教育における
「新鮮さ」を描き出すようにしてきている
1960年代に文部省(当時)はインテグレーション(integration)を打ち出し、1980年代には、メインストリーミング(Mainstreaming)。そして1990年代には、
インクルージョン(inclusion)を障害児教育に導入してきた。
そして、特殊教育という言葉を特別支援教育という名称に改め教育における「新鮮さ」を描き出すようにしてきている。
異質なものを何らかな方法で
「統合」「包括」するなどの考え方
インテグレーション(integration)、メインストリーミング(Mainstreaming)、インクルージョン(inclusion)に共通するのは、異質なものを何らかな方法で「統合」「包括」するなどの考え方だろう。
なぜこれらの考えが日本では、導入されてきたのかを充分考察しないことには、人間としての平等な社会が過ごせないように思える。
ハンナ・アーレントの「強制された分離撤廃は、強制された分離と同じように望ましくないと言う意見を読んだことがあるが、わたしはこの意見はまったく正しいと思う。」ということに今深い考察を展開している。
なぜなら、インテグレーション(integration)、メインストリーミング(Mainstreaming)、インクルージョン(inclusion)に共通するのは、異質なものを何らかな方法で「統合」「包括」するなどの考え方と並行して障害児学校が統廃合されている現実を見るから。
「それは日本手話でない」
「日本語対応手話だ」
「日本語対応手話が出来ない」
「新しい手話を使っていない」など乱射
また「自分の子供に平等な教育機会を与えたいのであれば、機会の均等を確保するのであれば、わたしは黒人の子供たちの学校を改善するために闘うべきだろうし、成績が低くて白人の子供たちのための学校ではうけいれなくなっている黒人の子供たちのためには、特別なクラスを設置することを要求するべきだろう。」が否定されている現実を見るからである。
「しつけ」「人権」「平等」の名のもとに「理解至上主義」「基本的人権の蹂躙」「平等という名の不平等」が横行しているとも考えている。
手話の分野で、手話で話していると「それは日本手話でない」「日本語対応手話だ」「日本語対応手話が出来ない」「新しい手話を使っていない」などのことが乱射されることが多いと思うのは私の一面的理解だろか。
手話を学ぼうとする人々や手話の多様性を受けとめコミュニケーションを豊かにしていこうとする人々を排除して、ある特定の手話に「卓越?」した独壇場をつくりあげつつあげているとおもえる。
どうでもいいのだ
「それは日本語手話でない」
「日本語対応手話だ」
乱射の影で大切な人間同士のコミュニケーションが成立していると言うことが忘れられていないだろうか。
あえて、書くと、「それは日本語手話でない」「日本語対応手話だ」「日本語対応手話が出来ない」「新しい手話を使っていない」などはどうでもいいのだ。
話が通じ、理解が深まれば、ということが何よりも大切なのだ。
特定の人が「特定の方法」を強要している昨今ではないだろうか。
手話や手話通訳は、ろうあ者とともに豊かな心の中ではぐくまれてこそコミュニケーションは成立する。