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手話と手話通訳

京都の手話通訳者の取り組みと研究の中からの伝承と教訓をみなさまに提起します。戦前戦後の苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを決して忘れることはなく。

まだまだ言えないことがあまりにも多すぎるともとれる証言

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

    84歳の時に被爆体験を証言

 

 西岡林市さんは、84歳の時に被爆体験を証言してくれている。

 

 もう26年余の月日が経ってしまった。

 

 諫早の牛の仲買をする家庭で育った西岡さん。

 

 聾学校に行けず17・8歳の頃に畳職人としての見習いの仕事に就く。

 

 3年間の賃金のないただ働きの見習い。

 

 住み込みの畳屋さんを飛びだして実家へ。

 

 怒る父に母は林さんを心から庇ってくれたのだろう、

 

 私には、文には見えないが、微妙な手話の中にそのような気持ちがあったこと、が見えてくるから不思議だ。

 

 文字に秘められた哀しみの二人暮らし

 

 畑の草むしり、牛に犂を引かせての田の作業。昭和の初めに西岡さんは長崎市内に移り住むことになる。

 

 兄弟たちとともに住んでいるものの、戦争は次第に西岡さんとお母さん二人の生活を余儀なくせざるを得なくなるまでに追いつめる。

 

 西岡さんやお母さんの胸深くに去来したことが述べられていないが、私たちは決して文章にある「母と私の二人きりで暮らし」の意味を字面だけで受け止めてはならないのは言うまでもないだろう。

 

 兄弟は徴兵され、残された西岡さんとお母さんにはあらゆる形の重圧が加えられていた事は充分推定できる。

 

 畳仕事もだんだん少なくなり、西岡さんにとうとう仕事ができなくなってしまう。

 だから西岡さんは、力仕事をするようになったと証言する。

 

 証言に現れた情景を読むことの意味

 

 8月9日。西岡さん38歳。

 

 朝からの町内の穴掘り作業。

 

 強い衝撃。

 

 飛ばされた身体。

 

 下腹部の刺す痛み。

 

 頭を打ち付けてしまう驚き。

 

 見た回りの風景は霧に覆われたように真っ白で何も見えなかったと西岡さんは証言する。

 

 衝撃的な事件に加えて聞こえない西岡さんにとっては周りの情景が見えなくなったことは、恐怖を一層昇降させていったことだろう。

 

 そこに鼻を刺す臭いもあった。

 

     「幽霊のようになった人々」を見る

 

 お母さんのことが心配になって自宅に戻ってみる。

 

 西岡さんの家はつぶれて、煙が上がっている。生木からも煙が出ている。

 

 崩れた壁の下からお母さんを見つけ出し、かすかな息を確かめる西岡さん。

 

 お母さんの身体には無数の竹が突き刺さり、西岡さんはその竹をひとつ一つ抜く。

 

 そして、お母さんを背負い、防空ごうでお母さんを寝かせ、ぼう然となった

 

 西岡さんは、墓地の中で一晩を明かす。

 

 でも、それから西岡さんが見た光景は、まるで「幽霊のようになった人々」だった。

 

 あらゆる恐怖と想像を絶する恐怖が、襲いかかっていたのだ。

 

 ともかく西岡さんは、父や兄とも再会。兄はお母さんを縄でおぶって帰ってきた。

 

 原爆投下2日後に、西岡さんのお母さんはなくなる。

 

 お父さんはその年、お母さんを追うかのようになくなり、西岡さんの戦後がはじまる。

 

    27年間西岡さんは畳職人として働いた

 

 五年の後、西岡さんは再び畳の仕事に就き、結婚する。

 

 それから、27年間西岡さんは畳職人として働いた、と証言。

 

 そして、楽しい思い出は、旅行と買い物と言い切る。

 

 証言した83歳の時に、西岡さんは老人ホームで生活しながら、ゲートボールをしている。それが唯一の楽しみ、と言う。

 

 まだまだ言えないことがあまりにも多すぎるともとれる西岡さんの証言だ、と思うのははたして私の憶測しすぎなのだろうか。