(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて
坂口さんは69歳の時に被爆体験を証言してくれている。
1歳の時に聞こえなくなり、6歳の時ろう学校に入学。
歯の痛みでで休みがちであったためか、翌年7歳の時再入学。
その人の姓 示唆に富んだ歴史
手話のひとつの動きで表現
この50年前に坂口さんが「歯を痛めた」ことが、今だに坂口さんの名前の手話表現になっていると言う。
戦前の聞こえない人々のそれぞれの名前は、それぞれの人々の特徴やろう学校での生活におけるある事件を境として名付けられることがしばしばあった。
その人を表す手話表現が、非常に示唆に富んでいることがしばしばある。
手話のひとつの動きでその人の姓が分かる。
しかも、その人の歴史的な手話表現の馴れ初めが表されるというのだから、手話への興味は尽きないものがある。
そして調べてみると人間のあまりにも創造的な証言力に感嘆する事が残るだけになったりする。
手話の大きな特徴である。
聞こえない人々にとって、その手話表現はいやな思い出になることもあったりして最近その手話表現は消えつつある。
でも坂口さんは、50年前に名付けられた自分の手話表現を大切にしていた。
笑顔と笑いが基礎にある手話授業
坂口さんの同級生は20人。
畳の部屋での学習。
小学校低学年は息の出し方、絵カードでの言語訓練を繰り返し。
そして、坂口さんが10歳の頃から文字が教えられたようである。
11歳の時に新校舎に移り、中等部では洋裁の課程を学んだと証言している。
ところがある日、突然、坂口さんは急に教師代行し、手話で授業をしたため生徒の評判がよくなり洋裁科の生徒が増えたという。
興味深い話である。
いつの時代もそうであるが、生徒たちは分かる授業、楽しい授業を求めている。
疑問や新しい知識に生徒たちは敏感で、それが深く理解することが出来れば出来るほど知的感動を心の中に渦巻かせる。
坂口さんは手話を使って授業をすすめたが、きっと坂口は表情をいっぱいにして、おもしろおかしく冗談を含めた手話で授業をしたのではないかと考えられる。
笑顔があふれる授業風景というのは、いつの時代でも子どもたちの気持ちをとらえて放さないのではないかと思える。
十代の教師代行 教える力を発揮
坂口さんのような教師代行は、今の日本では考えられない。
上映された中国の映画「あの子をさがして」には、13歳の女の子が教師代行になり、13歳の女の子が見事に教育者として育っていくようすがリアルに描かれている。
10歳を超えた坂口さんが、下級生に教える力を発揮したことは可能なこととして受け止めるべきである。
ろう教育において、「9歳の壁」と言うことが古くから言われてきたが、それは聞こえない生徒たちが話し言葉から文字を獲得していく過程の中で生じてくる「壁」を意味している面もあった。
私は今ここで、ろう教育を論じるつもりはないが、「9歳の壁」などと論じる以前に、大切なのは上級生が下級生を教えるという、教えあう関係の中から教育が成立している。