手話 と 手話通訳

京都の手話通訳者の取り組みと研究の中からの伝承と教訓をみなさまに提起します。戦前戦後の苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを決して忘れることはなく。

手話 で表現出来るあらゆる手段を使って表現 絶望的の長崎市街地

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    (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 中島さんは、19歳でろう学校を卒業。

 

 木工所へ就職し、本棚や机タンスなどの制作をはじめる。

 

   結婚して新居へ 原爆投下地点などとは

 

 卒業後は、陸上競技に夢中。

 

 円盤投げは、健聴者と競技し、2位の成績。さらに柔道も習い始める。

 

 その背景には、聞こえないと馬鹿にされてきたことをバネに何とか自分の力を強くしていきたいという強い意志があったとことが解る。

 

 30歳。

 

 ろう学校の卒業生だった奥さんと結婚。

 

 新居を構え、新しい人生をはじめた場所は、まさに爆心地の近くだった。

 

 1945年8月8日。

 

 食料調達のために、あちこちの田舎に行って食料を仕入れていた日。

 

 約30キロを超える荷物を背負って、疲れ果てた身体で家に帰る。

 

 翌朝。9日。

 

 運命は、まさに疲れが出た中島さんのいのちを守り抜く。

 

    突然、ガラスが大きく割れて

         地震のような

 

 疲れ切った中島さんと奥さんと娘さんは、家で休んでいた。

 

 6歳の男の子だけは家からでて、遊びに出かけていた。

 

 突然、ガラスが大きく割れて、地震のようなふるえ。

 

 3人が気がついたときに、子どもがいない。

 

 必死。

 

 捜す。

 

 が、結局、炭焼き小屋で遊んでいた男の子は真っ黒な顔して登場する。

 

 防空壕への避難。押しかけた防空壕の蒸し暑さ。

 

 3時頃に帰宅。

 

 ガラスが飛び散った家で、家族4人が眠ることが出来た。

 

 中島さんの証言から、安堵の気持ちが私にも伝わってくる。

 

 日頃から聞こえない中島さんたちを案じている隣近所の人が気遣いも伝わってくる。

 

    助けて、と言っているように思えるが

 

 被爆の翌日。

 

 やはり中島さんもまた、ろう学校のあった松山町方面に向かう。

 

 駅前の大きな穴。

 

 壊れた大学病院。

 

 全壊した兵器工場。

 

 飴のように曲がりくねった電車の線路。

 

 とばされて電線にぶら下がっている死体。

 

 「片足鳥居」。

 

 黒こげになって倒れた人々。

 

 馬や牛の死体。

 

 生きているように思えた女の人。

 

 生き残った人もよろよろと痛ましい姿で歩いている。

 

 助けて、と言っているように思えるが聞こえない中島さんには何も出来なかった。

 

     同じ苦しみよう分かち合いながら
  絶望的な長崎の市街地を思い浮かべ

 

 赤ちゃんをおぶって倒れている女性。

 

 息絶え絶えの人々。

 

 原爆で吹き飛ばされた身体の一部が川に浮いている。

 

 それまで働いていた仕事場には、のこぎりらしいものしか残っていなかった。
 
 原爆の凄まじさ。

 

 中島さんは、手話で表現出来るあらゆる手段を使って表現したことは十分予測できる。

 

 中島さんの苦しかった証言。

 

 だが、それを見ていた人々をまた同じ苦しみよう分かち合いながら絶望的な長崎の市街地を思い浮かべたようすが手に取るように私にもわかってくる。