(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて
聞こえない人々は何とかもがき苦しんでいる人々や死んでいく人々に対して、心から援助の手をさしのべたいと純粋に考えている。
だが、聞こえないということは、それすらをも許さなかったのだ。
ただでさえ生きにくい世界で生きていた聞こえない人々が、自分のことばかりを考えるのではなく、自分の出来ることはないか、と葛藤するようすは、激しく私の胸を打つ。
人類の歴史上で最大の大量虐殺
人として生き
人として助け合っていく
こころを失わなかった
何もかもが破壊された絶望長崎市街の中で、多くの人々も人として生き、人として助け合っていく心を失わなかった。
人類の歴史上で最大の大量虐殺というかってない事態の中でさえ、人々の人間的な良心は破壊することは出来なかった。
このことはこれからの次代に永遠に伝えていく必要があるだろう。
その人々の中に、聞こえない人々もいた。
あの時代、人間でありながら人間として扱われなかった時代。
それでも、聞こえない人々は人間性を消して失わなかった、いや、もっとも人間らしい行動したと言うことを証言している。
私たちは同じ人間として、このことをどんなことがあっても大切にしていかなければならないと思う。
「敵国」米軍の仕事
4時起床という厳しい労働
中島さんだけではなく、今まで被爆した聞こえない人々のすべての証言が人間らしい人間的な行動とったことを明らかにしている。
焼け跡の長崎。
中島さんは、「敵国」米軍の仕事につく。
妻と子と別居して休む間もない米軍住宅での仕事。
3年後には佐世保の将校クラブでの住み込みの労働。
4時起床という厳しい労働の中で佐世保のろうあ協会の仲間と交流。
この仲間たちとの出会いは、時間を超えた喜びの一時。
恋人と会っていたかのようにまで勘ぐられるほどの時間。
手話で話し合う仲間たちの嬉々とした表情と手話の流れが目に映る。
家族への想いから一時長崎に戻りつつも、再び家族とともに佐世保に戻って厨房の仕事をしたと証言する中島さん。