(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて
全通研長崎支部は、成人を迎え、成熟期に向かって驀進している。
私は年老いたことだけだ。
私の記憶に残っているのは、全通研長崎支部を結成するために長崎支部を訪れた誕生前と誕生日。
全国手話通訳問題研究会ー全通研は、長崎支部が結成される頃は全国に全通研支部が存在せず、本当に全通研が全国支部を持ちうるのかどうか、という少なくない不安を抱えての航路をすすんでいた。
手話通訳集会や方法の
はなしに辟易していた頃
各地では、府県手話サークルとの違いが明確でないとか、全通研の支部が出来ることによって府県手話サークルとの対立や混乱が生じる。
全通研の支部が結成されてもナニをドウシタラいいのか分からないという支部があったりした。
その度、全通研では揺れが大きくなったり揺らいだりしながら、まだまだ航路の羅針盤は持ち得ていなかった。
その頃、私の所に全日本ろうあ連盟の研修会の長崎行きの話が舞い込んできた。
いつものように誰かが約束していてそれがスケジュールの都合がつかなかったから、行ってくれないか、と言う話だった。
長崎。
生徒を修学旅行で連れて行った経験はあるものの長崎の人々との面識はほとんどなかった。
そんな私に「ついでに長崎支部の結成とそのうちあわせをしてきてくれ」という突拍子もない注文までついた。
それが私の長崎支部誕生の予兆のはじまりだった。
「長崎のろうあ協会会長の山崎さんは、全通研長崎支部をぜひつくってほしいと熱望している。協力してほしい……」
との高田英一氏の言葉が私に追い打ちをかけた。
全通研は単なる交流や集会や
手話研究のための取り組みに
終始してはならない
私が全通研の運営委員になったのは、手話通訳問題研究誌の継続発展という仕事で選ばれたにすぎなかった。
そのことすらも今は忘れ去られている。出版は苦労ということばで語れない苦悩があった。
全通研の結成に加わったものの運営員になる間には、全国の仲間と出会う機会は次第に遠のいていた。
各地にどのような人々がいてどのようなことを課題としているのかが充分つかめないでいた。
さらに全通研の運営委員会に参加していて、なにか物足りないものと覇気のなさを嘆かわしく思っていた。
私には、全通研は単なる交流や集会のための取り組みに終始してはならない、という思いは強かった。
しかし、私が運営委員になった頃は、運営委員会で夏の集会などの行事消化ばかりの話が主たる話で、私の心をとらえることはなかった。
ぼそぼそ、と手を動かす感じに秘めた情熱
大村の長崎空港に降り立ち、しばらくして思案橋あたりの小料理屋さんで話をした時が私と山崎さんとの出会いであった。
私の第一印象は、黒ずんだ柳のような人。
それが山崎さんであった。
手話表現は遠慮がちで、ぼそぼそ、と手を動かす感じだが、話すうちに心に秘めた情熱があることが分かってきた。
聞こえない人々の被爆体験を
聴きそれを記録することを
大きな取り組みとして
そこで私は、全通研長崎支部を結成するにあたって、聞こえない人々の被爆体験を聴き、それを記録することを大きな取り組みとして訴えたいがどうか。
ろうあ者の人々はそのことに共感してくれるだろうか。
と熱ぽく語った記憶があるが、とうの山崎さんは同じことをくり返す私に辟易していたかもしてない。
私は酔いすぎていた。
ほとぼりが冷めたのは何時のことだったろうか。
ぜひやってほしい
長崎でろうあ者が被爆したことを
薄ぼんやりした記憶しかないが、今でもはっきり残っている山崎さんの手話がみえる。
ぜひやってほしい。
長崎でろうあ者が被爆したことを。
私は全面的に取り組む。
ダダ、私は丹頂鶴。てっぺんだけが赤い、
ともう一度、赤冠と鶴の手話がくり返された。