手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー
最近手話について、よく二度繰り返す、三度繰り返す,などのことが断定して書かれている。
例えば京都という手話は、二度、繰り返すという。
京都は太陽の形で「西」を表し東京は「東」を表すことから手話がされてきた。
これは、明治時代の手話法・手勢法などのよるものであるが、首都が東京に移るまでは東。西で手話表現されることはなかった。
音声と漢字では「京」「都」「きょう」「と」繋がるので二度繰り返すと言っているのだろうと推測される。
日本手話として音声対応手話と異なると主張しながら実際は音声通りにその語彙数を音声の数だけ表示すると言う考えには驚かされる。
手話の特徴には、「一表現だけですむ」という簡略性がある。
音声言語で言うならば非常に、長くなるが、手話では一度だけの表現で済むという特徴がある。
このことを、見落としてはならないのである。
過去の先達者がコミュニケーションとしての手話を大切にしていたのかを理解してほしいものだ。
従って、手話についても、絶対、これだけとか、という手話表現でないことを知っておいてほしい。
主人。
家の上のに押さえつけて立つ人=長。主婦と主人との関係の手話表現を比較して見ておいてほしい。
けが。
よく頭に、傷を負ったことから、頭の傷という表現である。
両手を斜めに頭にぶつけるようなしぐさは、「きず」と「できもの」との違いなどを区別するために、よく考えられた手話と言える。
足にけがしたときは、足のけがした部分に手で切れたようなしぐさをする、
黒人(日焼けした顔・黒んぼう)
黒んぼう、黒人と呼ばれていた時代。
髪の毛を撫でて黒を表し、顔全体を回すことによって黒い顔として黒人と表現したのである。
夏に日焼けして顔が黒くなることと同一である。
よくどれだけ日焼けしたかを競う「黒んぼう大会」が海水浴場で行われていた。
1950年代の時期には、アメリカ人が日本人とする手話は、目のつり上がったJとしていたことは、京都に観光に来ていたアメリカ人のろうあ者と手話で話をした時に知って驚いたという逸話がある。
このように、色を表現する方法はいろいろある。
例えば、月経の場合は、唇を人差し指をヨコに置いて、赤を表現していた。
赤は血でもある。
口紅の赤は別の手話表現があった。
様々な場面において、色の表現は手話では多種多様である。
身体障害の手話について
身体・障害の手話は、身体全体と「壊れる、破損する、故障する」と手話で表されている。
写真の場合は、者=人々が省略されている。
身体障害という言葉に、害があるから、害という言葉をひらがなにするという考え方が近年横行している。
このことについて、既に手話通訳問題研究誌で伊東雋祐氏が述べている。私は必ずしもその指摘は正しいと思っていない。
身体を全身といして表現する手話。
そして、それが、壊れている、破損している、故障していると手話。
戦前は、不具者など言われていたため「不具」という手話がある。
1950年代には、身体障害者は盲人、ろうあ者、肢体不自由者を意味して他の障害者は排除されていた。
そのことを考慮するならば「障害」を文字の通りに、また言葉の通りに表現していなかったことにむしろ注目すべきだろう。
この時代は、身体障害者とは、盲人、ろうあ者、肢体不自由者だけを身体障害者の概念の中に入れていた国・厚生省の考え方こそが問題であって、手話表現そのものを問題にするのは大いに疑問である。