手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー
個人。
二度。三度繰り返すと「個々人」「めいめい」などの意味の手話となる。
顔全体を人差し指で描いて、それぞれの表情の意味もあるが、個人の固は甲や顔を覆って身を守る意味も含められている。
人として守る、自分が守られる、自分を守る。
漢字の表意を手話に取り入れたとも考えるが、明石欣造さんがよく戦時中の「防空頭巾」のことを言っていた話とダブって見える。
防空頭巾を着けて自分を爆風から守る、という手話だが、画像にもその悲壮と恐怖と今のいのちの防ぎようもない危機感の表情である。
体験したものしか表現出来ない表情には、どこまでも平和をもとめる瞳がある。そのような戦禍をくぐり抜けてきたからこそ、他に支配されない個人、自分がある。
個人の手話は、さまざまなことを付加する。人差し指を上から顔を形どるだけではない。
手術。
右手で患部を押さえて、左手の右差し指を鋭いメスにたとえて切る。
真剣な表情。
「目は口ほどにものを言い。」ということわざがあるが、メスは、切るべき患部にむけられ、迷うことなく切る。
真剣の意味合いの大切さを教えてくれる手話である。眼は、メスのように研ぎ澄まされている。
同時に、手話は全身で内面の気持ちを表現するものである。
従って、これらの写真には、←→など手・指の方向は入れなかった。気持ちを受けとめ、表現の意味を消化して手指を動かす。
メスをまっすぐに切ることもあるし、少し切ることもあるし。適当な顔をする場合もあるだろう。だが、この時の明石欣造さんは近寄りがたい真剣な表情だった。
画像には、~、⇒ などなどの印を入れていない。入れることで手話を形式化することを避けたためである。
手話学習する人は、自分なりに頭でイメージして手話をして欲しい。
また、手話を知らない人はろうあ者の人々が、創造的に表現するためにつくりあげた手話にあるとても奥深い意味があるのを知って欲しい。
明石欣造さんからは、髭そりの後の皮膚が青く見えるから「青=せいねん」とか、「未熟」などの意味で青=青年と教えられた。
唇の上の髭のあたりをさして手話の動作は終わるのだが、ほっぺた部分を手のひらの甲を少し付けてくるりと(歌舞伎役者の頬の化粧のように)回す方法もあった。
それをお尻に当てると「お尻が青い=青二才(蒙古斑)」とも教えられた。
青年は、額の皺がないという手話で表されたりもしたが、漢字の青年の、青ーあお であえて表して手話の魅力を伝えている。
「一つの手話」が「ひとつの意味」ではなく多様であり、その組合せで無数に表現出来ると教わった。漢字も1文字だけではなく組合せで無限に表現されるように、手話もそうなのだと。
根拠なき手話ではなく、日本語を踏まえ、漢字をかみ砕いたり、消化したり、一部の特徴を取り組んだりした手話が多く、驚かされた。
ここでは、「若い」と「青年」が区別されていることに注視する必要があるだろう。
どう違うのかを考えるのも手話学習であった。
手話はとてつもなく深い表現であるが、さまざまなものを「どん欲」に吸収して、ひとつにまとめて表現される。
表現の達人たちによって手話は産まれた。