手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー
そのもののまねを
そのままに
山 家 トンボ‥‥‥
「1954年手話冊子」 第2章 (2)-1 手話の成立
Ⅱ
(1)事物の形態から成立してた手法
いわゆる、そのものの真似を、そのままに、あるいは、幾分高度に抽象化して記号化した手話であり、山、家、花、トンボ、蝶々、などの名詞が多く、これなら一般人でも、凡その意味は理解できる種類のものである。
朝(起きるまね)
いも(いも芋を食べるまね)‥‥‥
(2)事物の状態から成立した手話
例えば早い(手を早く動かす)朝(起きるまね)いも(いも芋を食べるまね)などがあって、これらは名詞、動詞、形容詞を混合して成立させている。
だから「朝」と「起きる」が同じ手話であったり、夕方を「少し」「暗い」「頃」といわなけれなければならなかったりする。
動物という抽象的名詞の表現はなく
「人類」とか「植物」等の表現は‥‥‥
そして(1)、(2)項をを通じてこれらは、先に述べた、単なる「身振り表情」やものまねとの厳密な区分は困難であり、若し「手話」が遂にこうしたもの真似程度の低い、抽象段階から前進しないとするならば、彼等の思考活動は停滞し、知性は進行しない筈だ。
例えば「手話」に犬や猫やライオンという表現はあっても、動物という抽象的名詞の表現はなく、「人類」とか「植物」等の表現はない。
こういうことが彼等の思考活動を停滞せしめている因ともなってかくるのである。
のみならずこのことは、言語と思考との織りなす関係について、多くの問題を提供するであろう。
が、それはさておき、僕らは今「手話」とは(1)(2)の項のように、物事の形態や状態からわずかにシンボル化された、或いはもの真似程度の、寧ろ「身振りや合図]
に近いものから成立していることを述べた。
ただし、ここでことわっておきたいのは、これらの手話を、「単なる身振りや合図」から分かつものは、その触覚的動作的な記号が、言語としての概念や意味を代表しているかどうかということである。
ろうあ者の内的言語のによって
言語・思考の仕方は高いとも低いとも
すなわち、幼い聾児達が示す「山」や「川」が、単なる表象や印象を、(或いは動作的に身体的概念)を示すにに止まるに吾々のいう「手話」の場合には更に高度に、属性概念にまで高められているのであって、「手話」という言語的手段は、原始的であっても、それを使用する。
ろうあ者の、内的言語の奈如(注 事の次第、なりゆき、ようす)によって、言語の、又思考の仕方は高いとも低いとも考えられるのである。
このことは厳密に言って、言語の内容は、各人各様に異なっている。
(例えば、「お茶」という言葉にしても、それが好きでむしろ道楽であるAと、全くそう出ないBとでは、又その言葉を使う場所や、状態に於いても、その内容は自ら異なっているはずである。)のに似ているのだ。
より高く、より広い言語的経験を持つこと
コミュニケーションの学習を重ね
それがどの程度まで円滑であるか
吾々(以下 われわれ)がより高く、より広い言語的経験を持つこと。すなわちコミュニケーションの学習を重ね、それがどの程度まで円滑であり、普遍的であるかに従って、この「手話」記号に伴う意味も、異なっているのである。