手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー
「1954年手話冊子」第2章(2)-5手話の成立Ⅱ
手話は
個人が創作したものが流行して
発語指導に用いるサイン
(7)劇的手話
ギョギョ(人が歩いていて、横倒れる)などの流行語とか、流石(水が流れる。石)、一石二鳥(鉄砲を打つ。鳥が二つ死ぬ。二つもうかる)などのようにまれにある個人が創作したものが、流行して、手話になる場合がある。
又面白いのは、ろう公教育が、口話法に統一されてから、先生方が発語指導に用いるサインが手話になったりしている。(パンのように破裂音を親指と人指指を開いてサインしているが、これが「パン」という手話になり、パンパンになったりしているがごとき)
当然であろう
手話が地域により
個人によりひどく異なる場合が多いこと
(8) 手話の方言
一般人がほとんどあらゆる時間を通してさらされている新聞、ラジオ、テレヴィジョンによるマスコミにケーションから、聴覚的にはまったく閉ざされている彼等、彼等が、彼等同士でコミュニケーションし合う手話について、ラジオのごとく同じ内容を大勢のろうあ者が同じように伝達されるような場合は全く持つことが出来ない。
せいぜい地域のろうあ者が集まって、講演を聴き、自分たちで語り合うくらいのものだ。
従って手話は地域により、個人によりひどく異なる場合が多いことは当然であろう。
しかも、一般人が同一言語であれば音韻ゲシュタルト(注 音韻構成)によって、完全な伝達がなされるるのに比して、手話には、視覚的ゲシュタルトによって、完全な伝達がなされない。
現状では、近接府県や、全日本のろうあ者大会などの、地域的交流によって、幾分ずつでも手話は統一されつつあるようにしても(この場合、京都の人が九州の人の手話を見ていても、大体は、勘のようなものがあって前後の手話により話の内容を捉えることが出来る)
まだまだ低い段階でしかない。
例えば名前という手話を京都では親指と人差指が丸くして左の胸にあてるが、東京では、左掌にあてて名札をつけているまねをするといった具合である。
そうして、こうした違い、が多くの語についってみられるようである。
ううあ教育の歴史が古い地域の手話ほど
語彙も豊富である
今ひとつ見のがしてはならないことは、大体、ろうあ教育の歴史が古い地域の手話ほど、整理されており、語彙も豊富であることは、ろう学校を卒業した人たちが、多いから自然にそうなったのであろう。
手話の特徴や成立を非常に柔軟・適応性(flexible)に考えていて、ここには硬直した考えは排除されている。
人間の言語は、他言語を多様に受け入れ成立しているのであってその言語だけで成立・形成されたことはない。
漢字のテストでよく北海道の地名を書かせる教師がいる。札幌と書かすだけで漢字が書けたとしているが、サッポロという読みは漢字の読みと相容れないことで戸惑う生徒も多い。
サッポロは、アイヌ語の「サッ・ポロ」(sat-poro、乾いた大きい)や「サリ・ポロ・ペッ」(sari-poro-pet、その葦原が・広大な・川)であるとする意味があるなどの意見があるが、アイヌ語に漢字をあてただけで終始している漢字学習。それなら亜米利加と漢字学習をさせればいいのにとさえ思ってしまう。
それを説明しないで漢字を書かせる。
このことは、近年の手話を主張する人にも共通してある。
「日本語でない言語が日本にはもう一つあるそれは手話である」、と主張する人々は、日本には日本語以外にアイヌ語があり、その他の言語や在留外国人の言語を肯定していない。
特に、日本には日本語しかない前提で「もう一つの言語」というのは、国際動向から乖離していると言える。
その上で「1954年手話冊子」の「手話の方言」を標準語に対する「方言」ではなく、「地域」・「地方」と理解する必要がある。
このことを踏まえるならば、「1954年手話冊子」は多くの「違い」を「懐深く」受けとめていると言えよう。
「手話は地域により、個人によりひどく異なる場合が多いことは当然であろう」
「地域的交流によって、幾分ずつでも手話は統一されつつある」
「大体は、勘のようなものがあって前後の手話により話の内容を捉えることが出来る」
などは、手話をコミュニケーションとして大事にしているからこそ画一的な、断定的な手話をもとめていないのである。
いや、この時代は、全国に通用しないとして手話を否定していた人々が、さらに手話を否定する理由として多々発言したことは手話の歴史上忘れてはならないことである。