手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー
手話は語るべき内容を
美辞麗句的虚飾ををなるべく除いて
内容だけをより具体的に
理解できやすいように表現することに重点
「1954年手話冊子」第2章(2)-7手話の成立Ⅲ
その他、「手話」についての、細かい事は次章にゆずることにするが、とに角も「手話」は、語るべき内容を、美辞麗句的虚飾ををなるべく除いて、内容だけをより具体的に、理解できやすいように、表現することに重点がおかれて、コミニケーションがされているのである。
以上のべてきたように「手話」上はそれのみでは未開言語に似て、コミニケーションの低い仕方でしかない。
よく一般ろうあ者の姿勢の知性の低さが問題にされるが、もし彼らが、こうした「手話」しか持たないのなら、それも当然の帰結であろう。
そしてこういう事柄から、言語と思考の、根本的な問題が考えられはしないだろうか。
ただし私達の大方は、自らがろうあ者の不幸を擔(になって)いるのだ。
ろうあ者の思考過程や思考形態を
手話的思考過程から
音声語的思考過程へ高めよう
こうして「手話」についての研究を始めたのも、「手話」を興味的に、又理論的にに考えてみようとしただけではない。
こうすることによってさらに「手話」の語彙を多くしよう、まれに抽象的語彙豊富にしよう、のみならず、「手話」の裏付けとなるべき、音声言語によるコミニケーションの仕方を、より重要視して考えてみよう、そしてろうあ者の思考過程や思考形態を、手話的思考過程から音声語的思考過程へ高めよう、現在、知的には、社会の片隅におきざりにされているろうあ者の知性を、を少しでも、高上させていこうというのが、そのねらいでもある。
「手話」を用いることがろうあ者の知性を低下させると考えるのではない
音声言語的思考に習熟させることにより
知性的向上に益するものであれと願う
僕逹は、「手話」を用いることが、ろうあ者の知性を低下させると考えるのではない。
その背後の音声言語的思考に習熟させることにより、「手話」表現が美しくあれ、彼等の知性的向上に益するものであれと願うのだ。
そればかりではない。
この問題をとおして、美しく正しく平易な日本語についても考えてみたいとも思うのだ。