手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{続投稿}ー京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー
対話するのは大地だけ
京都府下を縦断してみるとその広さや地域の特徴の違いに驚くことが多かった。
京都市内を除いてろうあ者の人々は、点在して暮らしていて「孤独」と共に黙々と労働していた。
ろうあ者同士行き来する交通手段もなく寂しい想いをしていた。
対話するのは大地だけ。
現在ではすぐ行ける場所もくねくねした山道の峠をいくつも越えてろうあ者の方の家を訪問することは多かった。
訪問するととても歓迎された。ろう学校にも通えなかった人も多く、独特の身振りで話をされた。
また生活上の悩みも出された。と、書けば簡単に解ったかのように思われるが、そうではなかった。ある「ひとつのこと」を知るのに多くの時間がかかった。
自分の作業場に連れて行ってくれて
作業のようすと同時に「身振り」をして
わかってもいないのに、「うなずく」ことは、「了解」「わかった」ということをしてはいけないという教えを思い出してわからなければ、何度も尋ねた。
その度に、ろうあ者は粘り強くさまざまな自分なりの手話で幾通りも表現される。
申し訳ない気持ちと共に「適当にわったふりをする」と一瞬頭をよぎるが、それはよくないと思い「?」を繰り返した。
すると私の手を引いて、自分の作業場に連れて行ってくれて作業のようすと同時に「身振り」をしてくれる。
あ、そうか、このことだったのかと解って
あ、そうか、このことだったのかと解って「同じ身振り」をすると満面の笑みを浮かべてくれた。
そうなると、あれ、これ、それ、と次から次へと教えてくれ私もそれを覚えた。
これは私の手話を学んだ真髄であった。
気持ちが通じ合う、こころが通じ合う感動を消すことは出来なかった。
生活の中の手話。机上の手話では、満面の笑みを浮かべた人間の連帯が出来ないことを深く深く学んだ。
同時に非常に驚いたことがある。「身振り」表現が実に見事なのである。
どような苦境におかれても
その「矛盾」を取り入れながらも
一番特徴的なことを「一動作」で表現
作業の工程の動作のある表出した特徴を「切り取って表現」するようすは人間がどのような苦境におかれてもその「矛盾」を取り入れながらも一番特徴的なことを「一動作」で表現する。
ここにコミュニケーションの無限の可能性をがあることを知ることが出来た。
「かしこいろうあ者」「かしこくないろうあ者」区別の分断が大きく消え去る事件が起きた。