手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{続投稿}ー京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー
陳情するから団体交渉へ
おねがいから要求へ
ろうあ協会の要求は、役員が行政に陳情するという形態から集まれるろうあ者が参加して行政と交渉する「団体交渉」に変化していった。
この団体交渉は、行政への要求を突き詰めるだけではなく、参加したろうあ者がみんなの要求と自分の要求を練り合わせて学ぶ場となった。
手話も「おねがいする」「話し合う」から「要求する」「みんなが話す=手のひらを水平にして手指を動かす=交渉」「行政の担当者と交渉するよう」になっていった。
この場は、とても大切な「場」であった。
なかなか交渉に応じなかったが
行政は他の障害者団体と異なり陳情ではなく、交渉というろうあ協会に対して極端な「毛嫌い」をして、なかなか交渉に応じなかっただけでなく、たとえ交渉が開かれてもなんとか時間を引き延ばして、時間切れを図ろうとした。
ろうあ協会が要求を言う。
その項目ひとつひとつにくどくどと言い訳めいた説明をする。
京都府との交渉の時だった。
京都府の回答を通訳する手話通訳者と
ろうあ協会の要求を通訳する
手話通訳者の二人として
課長の意味不明な同じことの繰り返しのだらだらした回答にあるろうあ者が手を挙げて、「京都府の回答を通訳する手話通訳者とろうあ協会の要求を通訳する手話通訳者の二人として欲しい。」という言った。
京都府の課長はあっさりれを認めたが、それは課長の目論見を打ち砕き、ここからそれまで通りの話し合いではなくなっるとは思いもしなかったようである。
あれは大ちょんぼだったと笑顔で語る
後日、課長は「京都府の回答を通訳する手話通訳者とろうあ協会の要求を通訳する手話通訳者の二人として欲しい、と言われたことをあっさり認めたのは大ちょんぼであった。」と言ったがそこには笑みがあった。
行政担当者としては嫌で苦しいけれど、結果的にいい政策が打ち出されたならばそれはそれで大きな喜びでもあったからである。
ろうあ者も変わり、行政担当者の考えも変わる。
この時代は、目立たないが大きな胎動が生じていた。