手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃のことから}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
何かしなければという
焦りが手話通訳者を襲うとき
新たな体験をしたとき、その印象は強く残るものである。
ましてや知らなかった、いや知らされていなかったことを、知ったときの印象は心を揺さぶち続ける。
手話を覚えはじめた頃、手話通訳として何かやらなければ、でも手話が分っているのか、という自問自答が右往左往して、自分を包み複雑な気持ちになることがあった。
あるとき、ろうあ者のAさんが喫茶店に連れて行ってくれて、いつものごとく表現たくさんの手話を教えてくれた。
京都には数少なくなったが、ろうあ者のたまり場の喫茶店は多くあり、店主も快く受け入れてくれた。
手話で話す時は、椅子よりはみ出て熱中していたが、注意もわざとコップの水を替えて遮ると言うことはなかった。
遠くからのあたたかい眼差しがあった。
手話通訳をしようとすると
押しとどめる仕草
喫茶店で話すとこころがなぜかなごやかになる。
帰りがけにAさんはたばこ屋に向かいたばこを買おうとした。
慌ててAさんのところに行って手話通訳をしようとすると、Aさんは押しとどめる仕草をしたため佇んだ。
「ハイライトクダサイ」
そのAさんの声を聞いて正直びっくりした。
なんと弱々しい声だろう、なんと悲しげな声だろう、なんと圧迫された声だろう、と思ったが、店の人に伝わるはずがないと思ったがAさんはハイライトを受け取るとすたすたと歩いて行った。
店の人にAさんの声が通じたのだ、と思って二度びっくりした。
この時私には、充分な理解が不足していたのだった。
Aさんから重要なことを教えられていたのだが、気がつかなかった。