手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
1969年当時、ろう学校に用事があって行くときはいつも嫌だった。
仁和寺のバス停を降りて、仁和寺裏のろう学校に行く道すがら、青々とした樹々に覆われた道に心が洗われるのではなく、非常に苦しく、悲しい情景を見なければならなかったからである。
つらい
幼稚部から帰路につく親子の姿を見るのは
樹々に覆われた道は夏は涼しく、春夏は心地よく、冬は京の底冷えを防いでくれた。
だが、幼稚部から帰路につく親子の姿を見るのは辛かった。
少なくないお母さんが本気で子どもにビンタを打ち続けるか、拳を振り上げ頭をたたいているかのどちらかであったからである。
残念ながらにこやかに手をつないで帰宅する親子に出会わなかった。
お母さんの言っている様子からすると、子どもが今日の「授業」でしくじったこと。
ことばを覚えていないことを大声で繰り返し、子どもに「教えて」いた。
子どもは泣いて
お母さんは現しようのない形相
子どもは泣いて、お母さんは現しようのない形相をしている。
「ナニナニでしょう。もう一度言って」
「〇∥…~」
「ちがうでしょ。もう一度。」
とビンタ。
何度そのような姿を見たか知れない。
あの暴力の中で
「ことば」を教えられていいのだろうか
親の必死さは解らないでもないが、あの暴力の中で3歳、4歳、5歳までの子どもたちが「ことば」を教えられていいのだろうか。
そんな思いがするのでいつも幼稚部帰りの親子に出くわさないようにろう学校を訪ねた。
「ことば」を覚えていなかった子どもは残されるので、ろう学校訪問の時間が遅く行けば行くほど「見てられない光景」に出くわした。
「ことば」の「宿題」
その当時、ろう学校幼稚部では親子がそろって授業を受け、多くの宿題を持ち帰って「ことば」を覚えさせる「宿題」があった。
それは小学校入学までに覚えれば覚えるほどいいのだ、とされていた。
そして、それがこなされない子どもは、たとえ普通小学校に入っても「9歳の壁」にぶつかり、ろう学校にUターンせざるを得なくなると経験主義から出された方針が隙もないほどに貫徹されていた。
50年ほど経って知った
大変革 ろう学校幼稚部の教育
現在のろう学校幼稚部は、かっての光景の存在すらなく、子どもと親と先生の笑みが中心となって渦巻いているが、この50年ほどに大変革があった早期教育の基礎を知りたいと思えてならない。