手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
「誰のおかげで、おまえのような奴を雇ってやったと思うのだ。」「なに、給料だと、出してもらっているだけでもありがたいと思え。」「お前のようなろうあは、だれが雇うと言うのや」「頼まれたから、使ってやっているのにその恩もわからんのか。」
と親方は怒り、怒鳴りちらし、手当たり次第に物を投げるだけだった。
話をまともに聞こうとしない。
怒鳴り返せない悔しさ
刻み込まれたDさんの誠実な顔
Dさんの手話は次第に弱々しくなり、下を俯いたままになり、手話通訳を見るどころではなくなっていった。
Dさんの誠実な顔だけが胸に残り、怒鳴り返せない悔しさ。
Dさんの誠実な顔だけが私の胸に残り、怒鳴り返せないDさんの弱い立場が胸を鋭利な刃物で突かれたような気持ちだったが、Dさんはそれ以上だっただろう。
ろう学校を出て、ひたすら「はい、はい」「はい、はい」「はい、はい」と無理難題を聞き入れ、礼儀を尽くし続けてきたDさん。
それが、ろうあ者の生きる道だ、とも教えられていたことも後で知った。
徒弟関係と言うけれど、そこには、いたわりはおろか血も涙もなにも流れていない。
京傘職人の仕事も奪われ
それまで以上の苦しい生活に
結局Dさんは、京傘職人の仕事も奪われ、それまで以上の苦しい生活に進むことになってしまった。
たが、Dさんの顔は晴々としていた。
「やめんならんようになって、ゴメンな」
と私たち。
でも、Dさんは笑顔で、
「ありがとう。ありがとう。」
言いたかったこと
初めて言ってもらった
「私の言いたかったことが初めて言ってもらった。」
「こんなうれしいことはない。」
と永年堪え忍んできた、自分の言いたいことが言えた事への満足感を身体ごと表現した。
立ち退きの家から帰る時、Dさん夫婦が手を振ってでうれしさ一杯の顔で見送られた。
やるせない気持ちが溢れてどうしようもなかった。
大矢さんと安酒をあおり続けたが、悔し涙しか出なかった。