手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
私は年老い過ぎて、娘も年老いた、これから先のことは考えるすべもない、とお母さんの「ことば」。
「なかま」であるろうあ者がいることを
その「ことば」を胸に大矢さんと共にもうすぐ残されるであろう娘さんの状況を少しでも改善するために、自分の家以外にも家がある、人々がいる、社会がある、そして「なかま」であるろうあ者がいることを知ってもらい、娘さんの未来を切り拓く道筋を探し求めて大矢さんとお母さんに話し、私たちは奔走したが為すすべもなかった。
「なにも出来ないのか」
「こんなことで人生が終わっていいのか」
「人間としての可能性がある」
「家だけの人生でお母さんが死んだら、娘さんは餓死するしかない」
と役所にあたっても、施設にあたっても、さまざまなところを探してもいつもどおりの「ない」「ない」ずくめだった。
このような問題に出会う度、大矢さんと共に心の奥底に暗く重くどうしようもないほど苦さを共有した。
それから数え切れないほどの時間のみが過ぎ去った。
人が来るとおびえていた面影は消え
廊下を歩いていると忘れることの出来ないあの時の「娘さん」に出会った。
昔の面影は残しながも表情は生き生きしている。
聞けば、聴覚障害者の施設いこいの村が出来て真っ先に入所したとのこと。
薄暗い家にじっとして、人が来るとおびえていた面影は消え去り、笑みが残っていた。
あの「娘さん」にもなかまが出来た
人とのコミュニケーションがとれるようになって手話も、読み書きも、自分の身の周りのことも少しずつ出来るようになってきていると聴覚障害者の施設いこいの村の指導員は言う。
いこいの村では、施設に入った聴覚障害者を「なかま」と呼び合うことも聞いた。
なかま、あの「娘さん」にもなかまが出来たのだ。
人間の発達の可能性と推し量れない無限性を実感した。